人の思考を考察する為に、デザインにも興味を持ちたいなという話


私は人が好きだ。
人間であるというだけでとても興味がある。一体どんなことを考えていてどんな家庭で生まれて何に興味があるのかが気になって仕方がないタイプだ。

別にこちらから根掘り葉掘り聞いたりはしないし、そこに何か邪推があるわけでもない。ただ純粋だけどに人の思考パターンを読み解く事が好きであるというだけだ。(人はそれを悪趣味というのかも知れないが…。)
自慢話なども割と楽しく聞ける方だ。この人はこういうことに誇りを持つタイプでそこに自尊心がくすぐられるのかーということを知れることにウキウキしてくる。

しかし、私が興味があるのはその人を構成する精神的な要素だけである。
なので、その人が着ている洋服や身につけているアクセサリー、靴なんかにはまぁ興味がない。時計だけは自分が時計好きなので結構意識するが。

なんなら昨日話した相手がスーツだったのか私服だったのかさえ思い出せない程に人の外見に興味がないし、相手が女性だった場合スカートだったのかパンツだったのかさえ覚えていない。

そもそも私がこのように人を構成する外見に全く興味がないのは、自分自身があまり自分を飾るものに興味がないからだ。
洋服に非常に無頓着でワンシーズンに1.2着服を買うか買わないかという具合だし、洋服を選ぶのが面倒なのでそこそこ気に入った形のものを色違いで買う。私の服は私を哀れんだ友人たちがくれた洋服だったりする。
それほどまでに私は洋服やアクセサリー、カバンなどに興味がないのである。

しかし最近、これは実は世界を楽しみきれていないのではないのか?と感じ始めた。

いや、これは「オシャレを楽しめてないからもったいない!」という話ではなく、「世界に溢れるデザインから見る誰かの意図を汲み取れていない事がもったいないのではないか」という話だ。

世の中に存在する人間の手で作られたものは全てにおいてデザインが存在している。
デザインなしに物は存在し得ない。それが金銭でやり取りされる商品ならば尚更だ。
洋服などに限らず、建物、道路、家具、文房具、携帯、食べ物のパッケージ、携帯…全てのものに必ずデザインは存在しているが、今の私はそれを無意識に受け取っているだけに過ぎない。

前述した通り、私は人が好きだ。というか、人の思考を考察する事が好きだ。デザインからは、作り手からの思考を感じる事ができるし、そのデザインを好む人間の指向も読み取る事が出来る。ならば私はデザインにも意識を向け、作り手やそれを好む人間の思考に着目すればもっと考察の幅が広がるのではないか?

世界は無数の人間によるデザインで出来ており、無数の意志で溢れている。

人の思考を愛するものとして、デザインと思考の関連性に注目してこなかったのは実にもったいないことだったのではないか。

そして私は自分の洋服などには無頓着であるが、美しいものは大好きだ。美しければ絵でも物でも人でも風景でも概念でもなんでもいい。とにかく自分が美しいと感じるものには、心が打ち震える。

だが、私はそのデザイン性を考えずただ「美しい」という言葉だけでそれらを評価してきた。
美しいか、美しいとは思えないからの2択だ。
そこから一歩踏み込んで、ここが美しい、ここが美しいと感じられない、と自分の美的感覚の解像度を上げる事により、より強く美しさへの感動を手に入れる事が出来るのではないか。
そして、美しさを感じる先にある作り手の強い意志を感じられるようになった時、私の人類愛は更に深みに辿り着けるのではないか。

ゲームのグラフィックに感動するよりも先に、この目に見える三次元世界のグラフィックを構成する様々なデザインに感動するべきだったのかもしれない。

物に含まれる多様な誰かの意思を汲み取れるようになった時、私はもっと深くこの世界を楽しみきれるようになるのだろう。その為に、まずは次会う人の洋服がどういうものなのか意識するところから始めてみよう。

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