清書1

短編小説『アドバルーン』

「キネとミノ。屋上にある、ふたりだけのささやかな秘密。
繋がれたアドバルーン、祝福され飛び立っていく熱気球・・・」 
この短編は『アドバルーン』という短編集に収録された表題作です。
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 日曜日の朝は眩しかった。目が覚めてからも私はしばらくベッドで横になったままで、陽光にかがやくレースのカーテンを見上げていた。カーテンの薄い影はチェック柄のパジャマと青いブランケットにかかり、日光は私の体をゆっくりと温めている。この居心地の良さに抵抗することはまだ考えられなかった。今日は何か予定があったはずだが、それについても何一つ思い出せなかった。

 しかし、いつまでもまどろんでいてはいけない。私は思い切って起き上がるとカーテンを引き、窓を半分ほど開けた。少し冷たい朝の空気が部屋に入ってくる。その途端、昨夜決めた時間通りに目覚まし時計が鳴り始めた。すぐにアラームを止めると、私は再びベッドに身を横たえた。
 これでもう完全に目が覚めた。いつでも起きることはできる。ただ、ちょっと横になってみただけだ。今日の方針を決めたら、顔を洗って歯を磨きにいこう。
 そんなことを考えていると、次第に頭がはっきりとしてきた。そうだ。今日はママと買い物に行く約束をしていたのだ。だけど今にして思えば、そんな約束をしなければよかった。どうにも気分が乗らない。今日はママと一緒に出かけるよりは、友だちと会ってぶらぶらしたいような気分だった。そう思っているとママが起こしにやってきた。
「もうそろそろ起きてね。スニーカー買いに行くんでしょ」とママは言った。
「起きるけど、それ今度にしたらダメかなあ」と私は言ってみる。
「まだどんなスニーカーにするか決めてなかったし。それに、ちょっと今日は他に用事があったんだ」
 私はあと十日後に迫った自分の誕生日のプレゼントにスニーカーをもらうことにしていて、今日はそれを買いに行く予定だったのだ。私がそう言うとママは明らかに気落ちした声になった。
「どうせなら早めに買って欲しいって、あなた自分で言ったんじゃないの」
「そうなんだけど、まだ誕生日は先だから来週の日曜にしよう」
 仕方ないわね、せっかく予定空けたのに、と言いながらも、それでお昼ご飯はいるのかしら、とママは聞いてきてくれた。私は出かけるからいらないと答えた。
 申し訳ないとは思うけれど、気が変わってしまったのだからどうしようもない。昨日まではわからなかったが、今日はまだ誕生日プレゼントを買ってもらう気分ではなかったのだ。
 では、どういう気分なのか?
 私は相思相愛でいちばんの親友だと思っている、同級生のミノにメールを送ってみた。
「ミノ、もう起きてる? 今日遊びに行ってもいい?」
 いいよ、とすぐに返事が来た。じゃあ今から行くねと折り返す。私は朝食をとってから使い古した白いテニスシューズを履いて、行って来ますと勢いよく出かけた。

 ミノのところまでは、自転車で五分もあれば着く。彼女は近くを流れる一級河川の反対側のマンションに住んでいるからだ。川向こうとこちら側とで校区が違っていたせいで、彼女と出会ったのは今の高校に進学してからのことだった。
 彼女とは一年の時から同じクラスだったので、もうすぐ知り合って一年が経つことになる。ミノは私より落ち着いた性格で、成績が良くセンスもあった。だけど彼女の持つセンスというのは、一般的に言うところのセンスがいいね、のセンスとは少し違うかもしれない。彼女はすでに彼女独自の価値観を持っていて、それは普通の価値観とはいくらか異なっているように思えた。でも、それを悪く言うような人は私の知る限りでは誰もいなかった。彼女のセンスはすでにそれくらい洗練されていたのだ。

 ミノはときどき、他のみんなより少しだけ大人っぽく見えることがあった。彼女は自ら進んでクラスの女子グループに属するタイプではなかったし、そういう人はどこか近寄りがたく感じるものだ。そんな彼女は、どこか黒猫のような秘密めいた印象があった。
 ミノに対するこれらの第一印象は、あくまで私がそう思っていたというだけなので、他のクラスメイトが彼女に対してどう思っているのかはわからない。もしかすると、じっさいの彼女はただの目立たないクラスメイトのひとりに過ぎないのかもしれない。

 いずれにせよ、そんな友だちは私のそれまでの知り合いにはいなかったから、たまたま同じ図書委員になって話すきっかけができたのは幸運だった。どうしてかはわからないけれど、私は一目見た時から彼女のことが気になっていた。何か私を惹きつける要素があったのだろう。私は子供っぽいから、大人っぽい彼女に憧れを感じていたのかもしれない。
 しかしいざ話してみると、彼女は私が思っていたより子供っぽいところがあるとわかった。子供っぽいというより、変に大人ぶっていないというべきか。同年代でよく見られるような、他人に隙を見せまいとするとっつきにくさはまるでなかった。彼女はいつでも自然体だった。そして親しくなるにつれ彼女はセンスだけでなく、非凡なユーモア、あるいは哲学とでも言うべきものを持った特異なクラスメイトであることがわかった。

 何度か話すうちに、私にとってミノは教室に入ってまず最初に探す人物となった。普段はクラスのみんなが笑うような場面でも表情を変えないクールな彼女だが、私を見ると表情をふっと和らげた。私は、自分が彼女のセンスに認められたように感じて嬉しかった。私たちは気が合ったのだ。
 いまでは、私たちはいつも一緒だ。この一年近くの間にも色んなことがあった。そしてこの春、私たちは高校二年生になる。

 私はマンションに着くと一階正面のインターホンで彼女を呼び出して、ロックの掛かった自動ドアを開けてもらいエレベーターで六階まで昇った。エレベーターの扉が開くと市街地の半分がよく見えた。朝の空気はまだ透きとおっていて、遠くまで見渡せた。
「キネ、いらっしゃい」
 ミノは水色のウールのカーディガンを羽織って、グレイのロングスカートを履いていた。いつも学校では一つ縛りにしている長い髪はふわりと背中で広がっている。この髪型のミノを見ると休みだなあ、という感じがする。そのリラックスした姿が私はとても好きだった。
「ミノ、今日は一日ヒマ?」
「まあね」
 私は今朝の気分のことをミノに話した。自分の誕生日プレゼントを買うのは先延ばしにして、その代わりにミノと一緒に過ごす時間を楽しみたかったのだ、と。
「キネは早生まれか」
「そうだよ。三月二十五日が私の誕生日」
「じゃああたしの方が一歳年上みたいなもんだね」
「ミノは六月生まれだっけ」
「そう。でも、六月生まれで得したことなんて何もないよ。春生まれの方が明るくて良さそうだね」
 早生まれとか遅生まれとか、いつもならこういう話題になると私はあまり良い気分はしないのだが、ミノが相手だとちっとも気にならない。彼女は、私の方がほとんど一歳分年下だったとしても決して見くびったりなんてしないから。もちろん、反対に憐れんだりすることもない。
 私たちはまず彼女の部屋で遊ぶことにした。彼女の部屋には私の知らない面白いものがたくさん置いてあった。私は他人の本棚がこんなに興味深いものだということを、ここに来て初めて知った。私たちは最近読んだ本や漫画の話をしてから、しばらくテレビゲームをして遊んだ。
「どっか行こうか?」
 ゲームがひと段落してから彼女は言った。私はあまりゲームが得意ではない。しかしミノはゲームの達人だった。
「河原を散歩してカフェでランチ、それか公園のスタバ、本屋さんか図書館、ショッピングモール、あと屋上」とミノが候補を挙げる。
「うーん、屋上」と私が答えると、「好きだねえ」とミノは笑った。
「いいよ。じゃあ、どっかで適当にお昼を食べたら行こうか」

 屋上というのは、このマンションの屋上のことだ。最近建てられたマンションは屋上が立ち入り禁止になっているところも少なくないが、ミノの住んでいるマンションは改築しているので見た目は新しいものの、建物自体が施工されたのは古いので住民は屋上に入ることができた。その屋上は普段何の目的にも利用されていない。そこには物干し台もプランターもない。入ることはオーケーでも、場所を独占するような私的利用は禁止されているそうだ。だからあえて屋上に出るような人もほとんどいない。ここが賑わうのは年に一度の花火大会のときくらいらしい。私たちがここを気に入って使うようになるまで、その屋上には文字通り何もなかった。

 いま、この屋上には私たちが持ち込んだ小さな椅子が二脚置いてあった。それは去年の夏に学校で盗んできたものだ。年々生徒も減ってるんだし、使われていない古い椅子をちょっと拝借しても誰も困らないはずだ、とミノは言った。私はその提案に形だけの抵抗をしてみたが、止めることはできなかった。行儀の良い罪悪感は、この屋上に私たち専用の椅子を持ち込んで、さらに居心地の良い場所にするという素晴らしすぎる思いつきには、全く敵わなかったからだ。
 私が内心わくわくしながら折れると、私とミノはそれぞれ自分用に一脚ずつ椅子を選んだ。そしてせっせとこの屋上まで運んだ。
 椅子を持って町中を歩くのは新鮮で楽しかった。誰かに引き止められないか心配だったけれど、道中で声を掛けてくる人は誰もいなかった。
 この椅子は誰にも見えていないのかもしれないよ。あたしとキネにしか。歩きながらミノはくすくす笑ってそう言った。
 そうして私たちは、屋上に二人だけのささやかな秘密を隠したのだった。

 外は晴れているが、曇っているとも言えるような天気だ。空は真っ白で近くの山も霞んで見える。一見太陽がどこにあるのかわからない。空は平面的な明るさで満ち溢れているが、もやが出ており視界は今ひとつはっきりとしない。天気が良い春の日は、大体いつもこんな風だ。
 近くを流れる川の堤防に並ぶ桜が咲き始めているのが見える。気の早い花見をしている人たちの姿も見えた。私たちは階段のある四角い建物の死角から自分たちの椅子を持ち出すと、屋上を囲む手すりの近くに並べた。そこに座ると周りの風景も下の景色もよく見える。私たちは眼下に広がる市街地を見下ろした。

「私たちもお花見してもいいかもね」と私は言った。
「天気は良好、それにすぐ近くで見れるんだから」
「行ってもいいけど」とミノは言った。「でもここからでもできるじゃない」
「むう。そりゃ確かにここからでも見えるのは見えるけどさ」
 二人とも裸眼で視力は良い方だった。だけどここからだと霞んでしか見えない。桜並木はぼんやりとして見えた。
「ぼんやりしてるよねえ」と私は言った。桜だけではない。屋上から見る世界は何もかもが眠たく見えた。
「こう天気がぼんやりしてるとさ、頭もぼーっとしてくるよね」
「まあ、そういう気分って連動してるからね」とミノは言った。
「意識がはっきりしていても、目に入るものがあやふやだと頭までぼんやりしてくる。じゃあ、その逆は?」
 突然、ミノは私を見ながらそう振ってきた。
「ええと。ぼんやりしているときにはっきりしたものを見ると、意識もはっきりしてくる?」
「そう。あんまり差があると、どうなるかわかんないけどね。でも、はっきりした人たち同士だとより賢そうな、ぱっきりとした話になるし、ぼんやりした人たち同士が話すと何の話してるのかすらわからない感じになるでしょ」
「なるほど。言われてみれば確かにそうかも。じゃあ、私たちの場合はどうかな」
「うーん。どうだろうねえ」
「うーん」
 私とミノは唸った。だけど、私にはわかっていた。ミノはいつもはっきりと思考明晰な方で、私がぼんやりしている方なのだ。私はひとりでいるときより、ミノといるときの方が頭の回転が良くなっているような気がする。まさにぼんやり、はっきりを見て頭が冴えるの図だ。きっとミノも、私のことを鈍い子だと思っているのだろう。

「まあ、キネははっきりしている方だと思うよ」
 しばらく考えてから、唐突にミノは言った。
「えー、そうかなあ?」
「うん。ぼんやりしてるときっていうのがなくて、いつも元気ではっきりしてる。で、気がついたら寝てるって感じ」
「確かに、そう言われると寝つきはいい方だな」
「あたしは寝つき悪いよ。こういうところでぼーっとしているのが好きだし」
「私は寝れないときってないなあ。ベッドに入るともう朝だ」
「そういうのってうらやましい。秘訣があれば教えて欲しい」
「秘訣ねえ。強いて言えば、あんまり何も考えないことかなあ」
「すごいねキネは。悟りの境地だ」
「悟りの境地っていうか、ただぼんやりしているだけだよ、私は」
 実際そうなのだ。何だか話が私の考えていた事とあべこべだった。
「いや、自然とそれができる人は少ないんだよ。貴重だよ」
 とミノは真面目な顔で言うのだった。
「ミノもぼーっとしてる風にはあまり見えないけれど」
「そう? まあ、だったら得だね」と言ってミノは笑った。

 遠くにいくつか、散らしたようにアドバルーンが浮かんでいるのが見えた。何が書いてあるのかは読めないが、ショッピングモールから飛ばされているようだ。
 それは風に揺られて、頑丈なケーブルに引っ張られている。まるでリードで行動を制限された犬のようだ。どこかへ遊びに行きたくて、自由に走りたくて懸命にリードを引っ張っている。風は一緒に行こうよと甘く囁く。空は待ち構えるように果てのない広がりを見せる。だけど、風も空もアドバルーンを自由にすることはできない。それはこの世界に自由があるということを教えてくれるだけだ。繋がれた犬はどこにも行くことができない。

 平らな地面。広がる住宅と団地群。近くを流れる川と遠くに霞む大きな川。運動公園と野球スタジアム。巨大な基地のようなショッピングモールとアドバルーン。
 それらのランドマークが配置された風景は、何だか箱庭のように見える。両手を広げればすべて収まりそうな気がするくらいだ。春の暖かさは日に日に増しており、来週末には桜も満開らしい。この小さな世界は安心感でたっぷりと満たされていて、穏やかに寝息を立てているようだ。

「平和だねえ」と私は言ってみた。
「だけど、昨日も今日もどこかで事件は起きてる」とミノは応えた。
「そりゃそうだけどさ。ここから見える範囲で何人くらい暮らしてるのかな」
「何万人かねえ? でも、小さな町だよ」
「小さいねえ。他の町のことはよく知らないけど、どうしてか小さく感じるよね」
 と私は言った。私は椅子から立ち上がると、手すりに乗り出して真下を見ようとした。でも手すりから屋上の端まではまだ少し空間があるので、完全に下の方は見えないようになっている。顔を上げると距離感のないぼんやりとした空があった。私は思わずあーあ、と声を出すと、手すりに両腕を乗せて目を閉じた。
「寄りかかっちゃ危ないよ」とミノは言った。
「うん。でもここから落ちた人なんていないでしょう?」
「いないけど、自ら落ちた人ならいるね」
「ええっ」
 私は思わず手すりから身を起こしてミノを見た。
「でもかなり昔の話だよ」
「知らなかった」
「あたしたちが生まれる前の話だと思う。その頃ここには手すりもなかった」
「そうなんだ。他には何か知ってる?」
 ミノはちょっと考え込んでから言った。
「いや、あたしはそういうことがあったって事しか知らないんだ」
 一体どんな人がどんな理由で飛び降りたのだろう。それは男性だったのだろうか。それとも私たちと同じ女性だったのだろうか。若かったのだろうか、それとも年上だったのだろうか。私には想像もつかなかった。
「平和なはずなんだけどねえ」と私は言った。
「そりゃ高いところから見てるだけだとね。宇宙から撮った地球の写真を見てさ、そこからコンビニ強盗とか、降水確率50%の日に傘を持って出るかどうかっていう小さな悩みがあるのって、想像できる?」
「できない」
「まあそういうもんよね」
「でも、世の中にはビルから飛び降りする人もいるってことだよね。私はまだそういうのってあんまりわかんないな」
「わかんない方がいいでしょ」
 ミノはきっぱりと言った。そして続けた。
「ただ、なんて言うのかな。やっぱり見方によって変わるんだと思うよ。この町が平和だっていうのはきっと高いところから見ているからそう思えるんでしょ。低いところで狭い場所だけを見ていると、やっぱり息苦しくなってくるんじゃないかな。そういう時に見方を変えてくれる誰かがいればいいけど」
「じゃあその人も高いところに行けば良かったんだね」と私は言った。しかし低くて狭い場所で苦しんでいたらしいのに、どうしてその人は屋上という高くて広い場所を人生最後の場所に選んだのだろう? せっかく見晴らしのよい場所に来たのに、この景色を見て考えを改めたりはしなかったのだろうか?
「うーん。あんまりいつも高いところにいるのも、それはそれでおかしくなる気がするけどね。ただ、この世界はどの高さからどんな風に見たとしても、世界そのものから間違いを正してくれるほどには優しくないと思う」
 ミノは正面の仕切りに向かって言った。ついさっきまで簡単な話をしていたはずなのに、ちょっと難しい話になってきた。
「ごめん。それってどういうこと?」と私は訊いた。
 ううん、とミノは考え込んだ。難しい顔をしてはいるが、怒っているようには見えない。むしろこういう会話を楽しんでいるようだ。
「つまりね。あたしたちはそれぞれの立場で、それぞれの見たものや経験したことから勝手に色んなことを感じて理解しているだけで、本質的にはこの世界には何のメッセージもないっていうこと、かな?」
 私はこの知的な友人に感心した。もちろんわかってはいたことだけれど、ミノは適当にそれらしいことを言って取り繕うような人ではない。
「メッセージか。私は世界から割とポジティブなメッセージを感じるけどな」
 としばらく考えた末に私は言った。
「そりゃキネがポジティブだからでしょ」とミノは笑った。
「そうなのかな」
「そうだよ。だけど、それでいいんだよ」
「じゃあミノは、世界が本質的に空っぽだとしても平気なんだ」
「空っぽとは言ってないよ。ただ特定の意味はないんじゃないかってだけで」
「ふうん。意味はないけど好きなように意味づけはしてもいいってこと?」
「そうそう。意味づけは勝手にできる」
「だったらミノは、この世界についてどう感じてるの?」
 私は思ったことをすぐ口に出してしまう方だ。そしてたまに言ってしまってからあっと思うことがある。私の質問を受けたミノは一瞬真顔になった。ミノは言った。
「さっきも言ったけど、あたしは何のメッセージもないなってことを感じているだけだね。真っ白な塗り絵みたいな状態かな。まだ色は付けていない。いや、付けようとしていない。どこから始めたらいいのかも、よくわかっていない」
 ミノはその自分の中の塗り絵を確かめるみたいにして目を閉じた。そして一呼吸してから目を開けると、私を見てふふっと笑って付け加えた。
「まだどんな色を付けるか考え中だね」
「そうなんだ。楽しみだね」
「楽しみ? まあ、そうかもね」

 ミノが相手だとこんな抽象的な話も自然とできるのが不思議だった。他のどんな友だちとも、こんな会話はできない。そして私が思ったことをなんでも口にしてしまっても、それが悪い方向に働くことはなかった。結果的には、彼女はそんな私を受け入れてくれるのだ。
「あたしのことより、キネの話が聞きたいな。そのポジティブなメッセージって一体なんなのさ? スピリチュアル系じゃないだろうね」
「むう。それはだね」
 私は少し勿体ぶって言った。私の頭にはひとつのイメージが浮かんでいた。
 それは、私が去年使っていた月替わりカレンダーのなかで、十月の暦と併せて印刷されていた写真だ。私はその写真を気に入って、そこだけ切り取って壁に貼り付けたのだ。
 北海道かどこかの地平線が見える大地で開催された、熱気球フェスティバルの写真。そこには世界中からおびただしい数の熱気球が集まっていた。朝焼けと思われる時間の澄んだ空気のなかを離陸し旅に出ようとするカラフルな熱気球たちの姿は、いつ見ても私の心を明るくした。
「ミノ、私の部屋に熱気球の写真が貼ってあったのって覚えてる?」
「あったあった。きれいな写真だったね」
「私にとって世界はああいうイメージなんだよ」
 空はどこまでも広く、何者にも区切られていない。すべての河川はすべての海と切れ目なく繋がっている。これは理屈ではなく、世界地図を見れば実際にそうなっている。熱気球に乗ったら、その区切りのない空をどこまでも飛んで行けるし、船に乗れば世界の端から端まで行けるのだ。

 そう考えると、絶対的な孤独なんてこの世には存在しないはずだ。どこにいても何らかの繋がりを見出すことは可能だと、私は思っている。なのにどうして影に捉われてしまうのだろう。世界が広すぎるからだろうか。世界がもっと狭ければ、孤独を感じずに済むのだろうか。みんながそばにいて、声を掛け合っていれば? それとも、身を投げるのにはそうした次元とは全く別の、私の理解が及ばない理由があるのだろうか。

 私はそんなことを何とか言葉にして、ミノに話す。
「キネの場合、そんなことはあんまり深く考えなくてもいいんじゃないかな。無理にわからないことをわかろうとしたって、仕方ないよ。それよりも、そのポジティブなメッセージを全力で追っかけてみるのがいいんじゃない? それでどうなるのか、あたしも興味があるし」
「じゃあそうする。私はいつか、熱気球には乗ってみたいんだ」
「それだと文字通りなんだけど。それに、あたしはちょっと怖くて無理」
「でも、見晴らし良くて気持ち良さそうでしょ?」
「キネは高いところが好きだね。あたしは高いところはここで十分。ここからでも良い景色見られるよ。一度ここで雪が降ってくるのを見たことがあったけど、きれいだったな。ここは他に遮るものなんてないでしょ。誰もいなくて静かだし、たまに遠くから街の音が響いてくるだけ。ここから見る雪ってね、夜でもほんのり白く光って見えるんだよ。街の灯りが細かく細かくなって、反射してるからだと思うけど。そんな白い点々が不規則にあっちこっち漂いながら落ちてくるのを見てると、段々何も考えられなくなってくる」
 ミノはそのときの様子を思い出すように、空を見上げてそう言った。
 彼女はなぜそんな事を知っているのだろう、と私は思った。雪の降る夜の屋上。ミノはそんな寒そうな夜に、どうしてひとりで屋上に上ったりしたのだろうか。それは今年の冬の話なのだろうか。それとも私と出会うずっと前の話なのだろうか。その日の夜も、やはり眠れなかったのだろうか。

 私は雪の降る夜、ひとりで屋上から空を見上げるミノの姿を思い浮かべた。
「それ、寒くなかったの?」
「寒いというより、顔に当たる雪が冷たかったかな」
「雪か。私は雪が降るのをそこまでじっくりと眺めたことはないな」
「いいもんだよ。雪とか波とかさ、絶え間なく動いてるものをずっと見るのって」
「今度やってみよう」
「それでキネ、今日はこの後どうする?」
 私はミノと話しているのが楽しくて、この後のことは何も考えていなかった。だけど彼女とならどこに行っても楽しめる。この屋上だって、取り立てて何かがあるわけではない。それでも話が弾むのだ。彼女と気兼ねのない時間を過ごせれば、私は別にどこへ行ってもよかった。
「では、さしあたって桜の開花状況でも確認しに行こう」
「結局、それね」

 私たちは椅子を片付けて屋上を後にした。最後にまたショッピングモールのアドバルーンが目に入った。風に吹かれたアドバルーンはそれぞれが同じ方向を向いて、斜めに傾いている。アドバルーンか、と私は呟く。熱気球とアドバルーン。似た者同士のはずなのに、どうしてこうも異なる境遇なのだろう。私は考えるまでもなく熱気球の方が好きだけれど、今日はアドバルーンの姿もやけに印象に残った。アドバルーンよ、彼らにも自由あれ。

 それから私たちは咲きはじめた桜を見て、まだ閑散としている茶屋の軒先で団子とお茶を頂いた。来週の日曜には、私はママと自分の誕生日プレゼントを買いにショッピングモールへ行くことになる。私はミノにそのことを話した。せっかくなんだから良い靴買ってもらいなよ、とミノは言った。

 そういえば、ミノは何か私のプレゼントを考えてくれているのだろうか。別に期待している訳ではないけれど、私はミノの誕生日には何かプレゼントを贈りたいと思っていた。でもミノの誕生日は六月だから、私の約一歳遅れの誕生日の方が先に来ることになる。
 去年はまだ出会ったばかりでそこまでするほどの関係ではなかった。だから、私の誕生日は二人が迎える最初の誕生日イベントになるはずだ。クリスマスの時はクリスマスカードの交換をしたし、お正月は一緒に初詣に行っておみくじを引いた。だから順当に考えれば、プレゼントを貰っても不思議はないように思えた。

 仮にプレゼントがなかったとしても私たちの関係は変わらないはずだが、無いなら無いで寂しいような気がするし、あったらあったでくすぐったいような気がする。ミノが私に何をプレゼントしようか考えている。その姿を思い浮かべるだけで、私は悶えるほどこそばゆくなった。仕方ない。誕生日までそのことは考えないようにしよう。いずれにしてもこちらから言い出すような話ではないのだ。きっとそれとなく向こうから話を振ってくれるだろう。私はそう思っていた。
 しかしそれから誕生日までの間、ミノはそのことについて一切言及して来なかった。「もうすぐ誕生日だね、何か予定はあるの?」とか、「キネは何か欲しいものあるの?」とか、そういう会話は一度も交わされないまま当日を迎えることになった。
 記憶力の良い彼女のこと。つい先日私が遅生まれだという話をしたばかりだ。忘れているとは考えられなかった。これはもしかすると、ミノは私の誕生日をとりわけ大きなイベントとは思っていないのかもしれない。私はそう思って、万が一そうだったとしてもショックを受けずに済むよう覚悟することにした。そうかもしれないと考えるだけですでにショックを受けている自分がいたので、それには大変な努力が必要だった。ミノはまったくいつも通りの彼女だったが。

 友情をプレゼントに換算しようなんて、そんな即物的な考えはミノの主義ではないのかもしれない。おめでとうと言って貰えたら、それだけで十分ではないか。私はそう思い直し、想定されたミノの主義に合わせることにした。そして物質的なプレゼントを期待していた自分を恥じた。
 でも、ミノは私の誕生日にきちんとプレゼントを用意してくれていたのだ。三月二十五日は高校一年生最後の登校日だった。その朝、どきどきしながらミノと教室で顔を合わせると、彼女は開口一番「キネ、誕生日おめでとう」と言ってくれた。私はもう、それだけで十分だと思った。


 ミノは渡したいものがあるからと言って、学校の帰りに私をマンションの屋上に誘った。私は親友に誕生日をスルーされるという最悪の事態が回避されただけでも心から嬉しくて、何をプレゼントされるのかなんてことにはまったく頭が回らなかった。そのときの私だったら、シャーペン一本だってきっと飛び上がって喜んだことだろう。
「ほら、キネ。見てごらん」
 ミノからの誕生日プレゼントは、じつに驚くべきものだった。私はそのプレゼントを見て驚き、歓声をあげた。だけどそれは、私たちふたりだけの秘密ということにしておこう。
                        (おわり)

テキスト:マキタ・ユウスケ
イラスト:まりな

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