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言葉に出来ない、この感覚

こんばんは卯月螢です。
自分の感覚と向き合いながら、絵や詩や文章を制作しています。

今日は、感覚の話。
「孤独の樹海」の制作の為に過去作品を振り返り、当時を振り返り文章を綴った作業を終えた現在・・とても静かに落ち込んでいる。
精神的に追い込まれた、というわけではなく気持ちが静かすぎるという表現が正しいのかもしれません。
抑揚があまりない。
夏だというのに・・私の場合は夏だからという事もあります。
夏に別れが多いので、あまり活動的になれない。
時に、電気を消して窓を開けながらお酒を飲んでいたら不意に別れの映像が浮かんで涙する事もある。
でもその涙は後悔に苛まれ病む様な激しさではなく、水面に落ちた雫の如く静かに広がってゆくものであると、最近は思います。
感覚的に悪いものでは無いと、直感で思うのです。

直ぐに他人の感情を拾ってしまう事もあるので、イライラした現場や賑やかな所など、ほどほどな距離を取るようにしています。
喜怒哀楽・・楽しい事も過ぎると脳にとっては多少のストレスがかかるらしいのですが、身に覚えのないストレスをもらって疲れるのも避けたい。
自分でも故意に思い出さないように努める事が多いです。

しかし、ついこの間いつもと違う感覚に出会いました。

仕事先で泣きながら話し合っている光景を目にする。
笑顔であるのに二人とも泣いていて、何かドラマにあるその場面。
聞けば二人は仲が良く、独りは親を病気で亡くしその当時を振り替えているらしかった。
何時もの通りその場から距離をとったとき「違うな」と不意に頭を過ったのです。
自分の感覚と違うと・・
数年前までは引きずられて泣いてしまう光景なのに・・冷静に見てしまう自分がいて少し驚きました。
「自分の悲しみの感覚と違う」
一昔前の自分とは「悲しむ」感覚が変わってしまった事を感じました。
大きな挫折と憔悴と、孤立と悲しみの数年を体験して私自身の感覚が、感覚のとらえ方が変わったのだなと自覚した時でした。
そこで不意に納得した事があります。

「孤独の樹海」最後の概略で書いた、空になった自分は『何もなくなった』ではな蓄積されら感情を形として捕らえる感覚が変化したからこそ描けなくなったのではと・・ストンと不意に落ちてしまって。

本当に感覚的な話なのです。
分かりずらかったらすいません。
未だ言葉に出来ない手探りなものなので輪郭がはっきりしないのです。

去年まで感じていた事柄の感じ方が変わってしまったので、今回詩画集を作って区切りも良いなと・・今さっき納得したばかり。
忘れないようにとこうして記している次第です。

何か環境の変化があり、
「今までの事が出来なくなった」とか
「一緒に泣いてあげられない冷たい人間になったかも・・」と感じた時は
無くしたのではなく
自分の考え方が変化したのでは?と考えて見ると違う見え方が出来るかもしれません。

この感覚の輪郭がはっきりしたら新たな制作が出来るかもしれません。

詩画集「孤独の樹海」

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