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山を登ればアホになる:山岳文学の話

先日、会社でメンタルヘルスの研修を受けた。

最初に断っておくが、
個人として何か病気を診断されたわけではない。

コロナ禍→リモート→精神病による
生産性低下が最近表面化していて、
全員参加必須と会社から義務付けられた研修だ。

その中で面白い話を聞いた。
脳内でアドレナリンが分泌されると、
思考力が一時的に低下するという内容である。

私は医者でも脳科学者でもないので、
この話の真偽はわからない。

しかし、経験則的に私の中で
しっくり腹落ちする部分があった。

というのも山を登っているとき、
降りているときに、
私の場合は大量のアドレナリンが出ている。

心拍数は上がり、
痛みの感覚がマヒし、
生き延びないといけないという野生の本能が
むき出しになる。

これが快感だったりするわけだが、
例えば2日計12時間、3日計18時間と
アドレナリンが出続ける状態が続くと、
自分の論理的思考力が弱くなるように感じる。

それはアドレナリンが出ているときだけの
一時的なものではなく、
例えば山から降りた後の月曜日も
脳が空回りしている状態が続く。

そんなときは、まともな文章が書けない。

実はこの現象、
多くの登山者に共通する課題なのではないか、
と思っている。

例えばグレートトラバースの田中陽希さん。
素晴らしい人格者で私もいつも番組を楽しんでいるが、
田中さんの文章は決してうまくない。

山岳文学の頂点に立つ
深田久弥氏を読んでいてもこれを感じる時がある。
山でアドレナリンが出すぎていて、
詩的な感受性が犠牲になっている印象を時々受ける。

おそらくピュアな詩人、
ピュアな文学者のマインドでは
幌尻、皇海、平ヶ岳などの奥深い山から生きて帰れないので、
ここはバランスが難しいところである。

(ただ例外もあり、
 田中澄江氏の「花の百名山」は一切感性を犠牲にせずに
 時には過酷な山行をまとめていると感じた。
 だから筆のレベルや書き方の問題なのかもしれない。)

私はサバイバルと感受性を両立したい。

奥深い山々を開拓し、
知られざる道、知られざるピークを
上質な詩に昇華させたい。

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