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生い立ちその5 20代の頃

こんにちは。ちゅんです。
経歴として生い立ちについて少し書きます。
今回は大学を中退してからの話になります。
もしまだ読んでいない方は、その1から読んでいただく事をお勧めします。

大学を辞めたものの、実家の状況的に帰れる状態ではなかったため、私は実家から離れた街で一人暮らしを始めました。当時は不景気もあり仕事もバイトすらなかなか見つからない状況で、何とかパン屋と子供造形教室と居酒屋を掛け持ちしてフリーター生活を始めました。地方都市なので、高卒扱いだとなおさら就職は厳しかったです。

当時所持金が10万円くらいだったので、予備校時代の恩師が10万円を貸してくださり(結局返そうとしたらいらないと言われた涙)周りの方が生活家電などを譲ってくれ、カーテンがない部屋に住んでいました(最上階だったので覗かれる心配はない)

フリーター生活で何とかギリギリの生活をしていましたが貯金出来なかったので、実家の親が離婚成立したので実家に戻りました。そこからはパチンコ屋でバイトをして、貯金をしました。
ここから数年は、創作を一旦やめて貯金をする事に専念して、まず東京に戻る事にしました(かなり漠然としていた)

3年後、都内の広告代理店に就職が決まり、晴れて都内で生活を始める事になりました。なかなかというかかなりブラックな会社で、毎日終電で帰る、DTPオペなので締め切りに追われる、人間関係がギスギスしてパワハラにも遭い、あまりにも酷いので辞めました。このタイミングで、大学の奨学金の督促状がアパートに届き(数百万が未納)かなり絶望しました。

泣きっ面にハチ状態でしたが、また実家に逃げ帰りつつ、派遣社員などを転々としながらなんとか貯金を再開しました。奨学金も返し始めました。
二十代中盤まではほんとに働く事とお金の事で精一杯で、創作をする気にもなれず、正直つらいという記憶しかないです笑。

二十代後半に都内で建設会社に就職し、一人暮らしに戻り、ここから創作活動を再開しました。
ちょうどフェイスブックを始めた頃で、大学や予備校時代の友人や先輩と再会する事ができたのもあり、やっと創作をやろうと思うようになったのです。また、独身だったので、過去と決別すべく父親の戸籍から抜けました。分籍といって、実際には履歴に残るので完全に抜けたわけではありませんが、
形だけでもと思い自分だけの戸籍を作りました。なので結婚するまでは上野公園が私の本籍地でした。

大学が中途半端で終わってしまったり創作も途切れ途切れだったので、自分の世界を追求する事なく時が過ぎていて自分の中でも「なんか燃焼しきれないな」ともやもやしていました。
大学時代の友人には私のふわふわした生き方に「薄っぺらい」と言われたり、作家としてもう有名になりつつある友人からは「一般の人」呼ばわりされたりして、なんか虚しいなと自分でも思っていました。

それでも20代後半には、今まで数年のブランクを巻き返したくて、展示に参加したり個展を開くなど無我夢中でやり始めました。自分が進みたい方向に動き始めると、周りに出会う人も同じような事をしてる人だったり新たな繋がりが出来て、私は今まで生きるために必死だったけど、創作に向き合うために動いてこなかったなと痛感しつつ、行動すれば世界が広がっていく希望も感じました。

この頃に、インスタレーションや小作品を思いつく限り作りました。
好きな作家は、立体であれば名和康平、船越桂、吉岡徳仁などです。世界観や作品の質感に透明感を入れた作品が好きです。
インスタレーションやメディア系ではジョン・ケージ、オラファー・エリアソン、フロリアン・ヘッカー、ジェームズ・タレル、ナムジュン・パイクなど。

10代から20代後半にかけて、アートの好みがだいぶ変わりました。最初は、草間彌生や横尾忠則などビジュアルの目を引く作品が好きでしたし、音楽も激しいロックやスカのような曲調が好きでした。
20代後半には色の主張がどんどん薄くなり、透明な作品やビジュアルではなくコンセプチュアルがメインの作家の方を好むようになりました。

この頃から、透明なものや目に見えないものに憧れのようなものを抱き、ビジュアルそのものをなるべく排除したインスタレーションだったり、音だけの作品、透明な素材そのものを利用した作品など実験的なものを作っていました。
働きながらの制作や展示活動だったので大変ではありましたが、どんどん楽しくなっていったのです。

続く

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