第754回 忘れられた陶磁器その2
1、力強い庶民のエネルギーを反映
最近、江戸時代の陶磁器を調べているのですが
そこで整理したことを少しシェアします。
その1はこちら。
参考にしたのは
東北歴史資料館1995『仙台・堤のやきもの』
という図録です。
図版の出典も特に断りがない限りはこちらからの転載となります。
2、日々の暮らしに寄り添うやきもの
前回、相馬の焼き物をご紹介した際に、競合として登場した堤焼。
こちらは仙台の城下町の一角、というか北の外れの丘陵に窯場が開かれたものです。
現在では宅地開発が進み、往時をしのぶことは難しいですが、
この台原丘陵では良質の粘土が豊富に採れたらしく、
伝説では、元禄年間(1688年から1704年まで)に上村万右衛門という陶工が江戸からやってきて窯を開いたとされています。
仙台藩の五代藩主、伊達吉村は中でもこの窯場に思い入れがあったようで、
寺田屋という職人を自ら視察した記録が残っているようです(獅山公治家記録)。
また、同じ治家記録には老中稲葉正通に「仙台焼」の焙烙を、太政大臣まで務めた公家の近衛家煕に「仙台焼」の茶入、湯粉入、水指を贈っている記事があります。
このあたりをみると、地域の名産として育てようという意識を感じますね。
ただ、実際に主たる製品は贈答用の高級品ではなく、
庶民が日常的に使う、カメやすり鉢など。
ただ、これらを特徴付けるものに「なまこ釉」があります。
まず黒い釉薬を全体にかけた後に、白っぽい釉薬を垂れ流しにする。
この変化に富んだ力強さを、明治に生きた民藝の提唱者。柳宗悦も絶賛しています。
昭和40年代まではどこの家庭でも、宮城県域を越えてみられましたが、
高度経済成長後の生活スタイルの変化で、その光景は失われていきました。
とはいえ、アンティークな置物としてはまだ街中でも見ることができますので
どこかでご覧になった方もあるかと思います。
私の実家でもどこからかもらってきて傘立てになっていました。
3、心に寄り添うやきもの
カメやすり鉢以外にも注目すべき製品はいくつもありますが、
あえて紹介したいのがこちら。
堤町には瓦職人も多く、その余技として同じ技法で形作られた
小さな祠が仙台近郊の屋敷神・氏神として祀られている光景が少し前まではよく見られました。
瓦製なので案外割れてしまうためか、完全な形で残っていることは稀です。
そしてもう一つは堤人形。
各地に流行した郷土玩具の一つとして、
堤町では足軽たちの内職として隆盛しました。
江戸時代の人もランキングをつけるのが好きで、
仙台名物を相撲の番付表に見立てて列記したものが残されており、
そこにも堤人形の名前が記載されています。
余談ですが大関が「松島」となっているのが素直にうれしいですね。
小結が「雄島」、前頭に「雄島碑」「松島図誌(仙台藩の儒学者がまとめたガイドブック)」「雲居禅師(瑞巌寺の100世住職)」「福浦島」「瑞巌寺」「富山観音」など松島にゆかりが深いものが多く見られます。
堤焼がどれほど地元に愛されていたかがよくわかりますね。
4、まだまだ知りたい
いかがだったでしょうか
水甕を始め、塩や味噌、漬物を貯蔵するための器として重宝され、
仙台市内の遺跡を発掘しているとたまに出てきますが
しっかりと編年研究されたことはないように思います。
元禄年間からだと300年以上、最も流行した文化文政年間からでも200年の歴史があり、かなり広域で流通しているものですので
ちゃんと出土例を集成して分析すれば色々なことがわかるとは思いますが
如何せん、出土するのが近代の地層からなので、あまり丁寧に調査をされないこともあるかと思います。
今後も他の地域窯の様相をご紹介しながら、どのような形で調査し、その成果を公開していくべきなのかを考えていきたいと思います。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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