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第737回 古墳は多分に政治的な存在

1、職場にご恵送シリーズ60

本日ご紹介するのはこちら。

月刊『文化財』680号

古墳の保存と活用の時間と空間


2、日本人はお墓が好き?

なんだか久しぶりの古墳特集です。

文化庁の川畑調査官が特集の趣旨説明的な文章でも述べていますが、

古墳時代というのはある意味特殊で、

お墓が時代を代表するものになっているのです。

まだ都市や防御施設が発展を遂げる前の段階で

墳墓だけが異様な規模で資源を投入される公共事業。

これは世界と比べても日本の特徴だ、ということです。

そしてその立体的な構造から、後の時代の人にも遺跡だということが理解しやすく、

古墳は常に地域とともに歩み続けてきた

と調査官も表現しています。

高さも規模も想像を絶する巨大な前方後円墳はもとより人の畏敬を集めますが、

近年の傾向として

広域で複数系譜に及ぶ首長墓群の価値を一体で把握して保護する動き

がある、というのが今回ご紹介したい部分です。

首長、つまり地域のリーダー的な存在のお墓であるからには

それがどのような順序で、どこに築かれているかを見ていくことで

権力者の基盤がどこだったのか、競合関係でどの地域が卓越していたのか、を考察することができるのです。

このあるまとまりを持った地域全体を史跡として捉えて、地域権力の主導権がどう変遷していったのかがわかることを評価するようになった、ということでしょう。

その最も明瞭な例として取り上げられるのが京都府の乙訓古墳群です。

3、学史にのこる遺跡

京都府の担当者である古川匠氏の寄稿によると

乙訓古墳群は現在の京都市南西部、向日市、長岡京市、大山崎町にかけての南北10km、東西5kmの範囲に分布しています。

この地域は考古学的には「桂川右岸地域」と呼ばれ、中世には「西岡」という名称で括られていました。

ヤマト政権の中心である奈良盆地と北近畿・山陰を繋ぐ経路上に位置する、という交通の要衝と捉えられます。

まず初めに近隣の大学が中心となって学術調査を始めました。

大正6年の京都大学の梅原末治による調査に始まり、昭和40~50年代の京都大学、昭和50年代後半以降は大阪大学と立命館大学と続けて大きな成果を生み出していきました。

その代表例が

川西宏幸の円筒埴輪編年と都出比呂志の前期古墳編年(首長墓系譜)

前者は古墳に飾られる埴輪の年代を決定づける鍵となった画期的な論文で、全国の古墳研究者がその成果を地元の古墳に当てはめていくことになります。

後者は乙訓古墳群を6つの小グループにわけ、各グループが競合関係にあることを示しました。

都出

そしてやや遅れて行政側がそれに答えて史跡としての整備に着手するようになります。

昭和42年に京都府で分布調査を実施したことが契機になり、その後各自治体に専門職員が配置されたことが、大きな進展をもたらしたのです。

京都市では昭和63年から天皇の杜古墳の整備、向日市では昭和58年から物集女車塚古墳の調査・整備、長岡京市による昭和50年度からの恵解山古墳の調査と整備、大山崎町では平成15年度からの境野古墳と平成23年からの鳥居前古墳の調査と

それぞれの所在自治体が精力的に活動を行っている様子が伺えます。

それが平成22年から京都府が主導する「乙訓地域の首長墓群の歴史的位置づけに関する検討会」の発足として結実し、調査報告書の作成とともに広域の国指定史跡となることができました。

このような広範囲に広がる古墳が一括で史跡に指定されることはこれまでなかったとのこと。

その範囲は世界遺産に認定された百舌鳥・古市古墳群にも匹敵します。

点よりも面、面よりも空間的な広がり、物語性が文化財の価値にも影響する時代になったということなのでしょう。

4、関係性こそ価値がある

いかがだったでしょうか。

たまたま考古学が先進的な大学が近隣にあったということもありますが

研究成果が行政を動かし、自治体の垣根を超えて一体となる取り組みを進め、全国の模範となるというのは羨ましい限りです。

本来は遺跡は単体で存在するものではなく、相互に関係性を持っています。

古墳だって近くに労働者を供給する集落がないと存在しえないですし、

必要な資源を運ぶ交通網があってこそ築造が可能となるのです。

もちろん遺跡がどれだけ遺るかというのは様々な条件が重なった上でのことなので

どこでも当時の姿を復元できるわけではありませんが

空間的・時間的な広がりをもったまとまりで、価値を評価し、

守り伝えていくことができるのが最善ですよね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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