第1091回 一つの霊場を語るには

1、読書記録210

本日ご紹介するのはこちら。

山口博之2021『山寺立石寺 霊場の歴史と信仰』

私自身の専門と近接しているので非常に興味深く読みました。

2、その分野の研究が最も盛り上がった時代

著者は山形県立博物館や県の文化財担当部署に長く勤め、

東北地方の中世考古学を牽引してきた一人です。

後書きに記された「東北中世考古学会」や「中世墓資料集成」でのご活躍は

私が学生時代から就職したての若い頃にリアルタイムで眺めていたことを思い出します。

中野豈任の『忘れられた霊場』を読んで「雷に打たれるような!」衝撃を受けて「霊場」に関心を持つようになった、という著者。

石造物についての深い理解と残された決して多くはない文字史料の読み込みを通して東北の一大霊場、「山寺」の様相を明らかにしていきます。

まずはじめに興味が惹かれたキーワードは

霊場は閉鎖された空間と、解放された空間とに分けられる場合がある。

という部分。

山寺は天台宗寺院として比叡山の灯明を受け継ぎ、慈覚大師円仁が眠る格式高い寺院。当然選ばれた者しか立ち入れない空間もある一方で、

多宗派の信徒が結縁のために参詣することが許されるエリアも入り乱れています。

我が町、松島の霊場も「伊達家の菩提寺」として領主のための空間があるかと思えば、周囲の岩窟には広く東北一円から結縁しようと参詣者が集まっていたことが碑文からわかっています。

そのモザイク具合というか、線引きがうまく見えてこなくて悩ましいところですが、山寺も似たような空間構造なのか、とちょっと安心しました。

次に引っかかったのは

河川の渡河点に巨大な露岩があり街道を見下ろし守護する

という景観が見られ、それは山寺だけではなく栃木県塩谷町の佐貫磨崖仏や岩手県平泉町達谷窟磨崖仏とも共通するものだ、ということ。

人々が行き交う街道を守護する「霊場」

これはそういうものがある、という視点で探してみると他にもありそうです。

そして円仁が葬られたとされる「入定窟」についても、改めて昭和23年に始まる調査の成果から振り返り、現時点での研究の到達点が紹介されます。

例えば骨が納められていたのがなぜ「金棺」だったのか、ということ。

実は平安時代の貴族の葬送例でも類似するものはなく、かなり特異であるといえます。

考えるヒントとして、著者は釈迦入滅時の物語を紹介します。

釈迦が涅槃に入り、金棺に納まるも天界から母である摩耶夫人が駆けつけ嘆き悲しんだところ、釈迦が自ら棺桶の蓋を開け、この世の無常を説いてまた蓋を閉じたというもの。

いや復活してまた自ら棺桶に納まるってなかなかすごいですね。

円仁はもとより、聖人の舎利(骨)には特別な力が備わっているとされ、

金棺内部の人骨にも刃物で削られた痕跡が残っているといいます。

病気を治すため、といって聖人の骨を煎じて飲んだということ…

現代人の感覚と中世人のそれとは大いに断絶があるのでしょうか。

法華経を書き写すのに、あえて普通の墨と筆を使わず、

石を墨がわりに、よもぎの茎を筆にして行う「石墨草筆」が

円仁の時代から現代まで行われているという事実には驚かされました。

油煙で作る墨、獣毛で作る筆を避けて、ということですが

修行者はなんとも厳しい修行を考えつくものですね。

最後に比叡山が織田信長に攻められ、灯明が潰えてしまった際に

山寺から移し返そうとした際に山形の大名、最上義光と円海や豪盛といった僧侶たちがどう尽力したのか、という顛末も面白いものでした。

その円海が山形から最上家が改易され、次にやってきた鳥居氏が苛烈な統治を行なったため、100歳を超える身でありながら呪詛に及んだという物語も驚嘆です。

3、いつかうちでも

このようにその成立から通史的に一つの霊場について、最新の研究成果も盛り込んで叙述される、というのは地域の歴史にとって非常に重要なことです。

いつか私も地元の霊場の通史をまとめたいと思います。

本書でも比較事例として少し松島のことも触れられますが、

ちょっと首を傾げたくなる記述もあるので、やはり地元からもっと積極的に発信する必要性を感じましたね。

そのためにやるべきことは、まだまだありそうです。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?