見出し画像

第1028回 明らかになった仙台藩高級官僚屋敷地の一様相

1、読書記録180

今回ご紹介するのは職場にご恵送いただいた、こちらの発掘調査報告書。

仙台市文化財調査報告書第488集 桜ヶ岡公園遺跡―第6次発掘調査報告書

民間住宅建設に伴い平成30年7月から平成31年3月まで発掘調査が行われました。

なお本文中に引用した図版は全て上記報告書に掲載のものを転載しました。

2、土地変遷史

該当する場所は「仙台大橋」という仙台の城下町と城の間を流れる広瀬川にかかる橋を渡る直前の場所。

報告書ではいくつもの古地図から該当地点がどう描かれているのかを紹介しています。

①寛文4年の『仙台城下絵図』では「伊達上野殿」と記載があります。

絵図①

「伊達上野」は留守宗景でしょうか。仙台藩一門第三席、水澤伊達家の4代目でから最上位ランクの侍屋敷だったといえるでしょう。

②天和2年の『奥州仙台城幷城下絵図』では「侍屋敷」

絵図②

周囲の敷地は「小人者屋敷」となっており、身分だけを記して個人名は出さない方針の図面だったようです。

幕府提出という制作目的が影響しているのかもしれませんね。

③元禄4~5年 『仙台城下五釐掛絵図』では「古内新十郎」「荒物御蔵」と二区画に分かれています。

絵図③

古内氏は国分盛重の子で政宗の従兄弟に当たる古内重広が仙台藩の奉行職を務めた家柄。

敷地が分割され、片方は「荒物御蔵」となっています。

④安政3~6年の『安政補正改革仙府絵図』では「石母田勘解由」「三澤信濃殿」

絵図④



石母田氏も古くは伊達郡の守護代を務めた家柄で仙台藩の奉行職。

三澤氏は出雲国の出自で、尼子氏・毛利氏に仕えていましたが、三沢為基が長府藩を出奔し伊達氏に仕え、孫の初子が綱宗の妻となって綱村と水澤伊達家の伊達村和、宇和島藩主伊達宗贇を産んだことから一門待遇となっています。

③の時代の敷地は踏襲されているようです。

このような重臣たちの家屋敷が、同じ一族で継続的に使われるのではなく、入れ替わりが多かったことがわかります。

⑤明治13年の『宮城県仙台区全図』になると「養蚕試験場」の記載があります。試験場の運用期間や建物の規模については詳細不明とのこと。

絵図⑤

⑥明治22年の『改正仙台市明細全図』には「控訴院用地」と記載され、現在に至るまで裁判所官舎が置かれていました。

絵図⑥

④までみられた、橋を渡る直前の、大きく屈曲する道も⑤の地図には描かれなくなっています。

この変遷だけでも色々と掘り下げてみたくなりますね。

さて、発掘調査の結果としては、武家屋敷内の倉庫や厩と考えられる建物跡が検出されました。

出土遺物は17世紀末から19世紀中ごろまでと幅広いのですが、生活していた地面は度重なる整地が行われ、その度に削平されていたので建物の全体像を推定できるような成果は得られなかったようです。

出土した陶器は5275点で、図化されたのは152点。

生産地でいうと小野相馬、大堀相馬、堤、唐津、信楽、織部など。

碗は大堀相馬、唐津の出土が多く、その年代は17世紀後半~18世紀中ごろとのこと。仏具の出土もやや目立ちます。信楽の茶壷やすり鉢の出土量が多いことも特筆さています。

磁器は5258点出土し、図化されたのは137点。

生産地別では肥前が最も多く、波佐見、瀬戸美濃、青磁、白磁があるとのこと。肥前の碗・皿が全体の30%を占める。

同じ遺跡の第4次調査の際の「県内三例目の鍋島焼」のようなインパクトはありませんが、地方藩の上級武家屋敷の陶磁器様相の一事例が蓄積されたということに価値があります。

瓦は全体の出土量は10000点以上、重量7トン以上となり、周辺の調査区と比べても格段に多いことから、廃棄された瓦が集積されたということも視野に入れると貴重な資料となるだろう、とされています。そもそも仙台藩では最上級家臣の屋敷でもこけら葺きですから。

3、仙台藩の高級官僚になった気持ちで

いかがだったでしょうか。

先日届いたばかりで、出土遺物についてはもう少し詳しくみてみたいところですが、速報ということで。

それにしてもこの仙台藩の高級武家屋敷だったところにマンションを建てよう、という発想はなかなかですね。

伊達家の一族(留守宗景)が植えたとされる桜もわざわざ移植し、ブランドイメージを高めるのに利用しているようですし。

仙台の街中にはまだまだ藩政時代の痕跡が数多く残っていることに

改めて気付かされた成果でもありました。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?