第432回 ある一つの治水事業
1、うちの町のパンフも読まれるといいな
安積疎水ってご存知でしょうか。
たまたま郡山に出張された方からパンフレットをいただいたのでご紹介したいと思います。
このパンフレットは「日本遺産を旅する」と題されたもので、雑誌『一個人』が特別編集をしているようです。
そう安積疏水は日本遺産なのです!
パンフレットの解説文の執筆と監修は歴史作家の桐野作人氏が行っているようです。
2、安積疎水と大久保利通
安積疎水とは福島県の猪苗代湖から取水して郡山市付近の飲料水、農業用水、工業用水として供給される水路のことです。
この開削には大久保利通が深く関わっているとのこと。
大久保利通は戊辰戦争で大きな痛手を受けた東北地方を復興するとともに
むしろ日本を支える富にしようと振興開発策を打ち出します。
世に言う、明治11年の7代プロジェクト。
その中に
阿武隈川を改修して白河・福島を海につなげ、野蒜港との一体的運用をはかり、福島地方の振興を実現すること。
が挙げられています。
当初は宮城県の阿武隈川から猪苗代湖を経由して阿賀野川を下って新潟県まで通貫する大運河の構想があったそうですが、
交通網は鉄道で、水源は疎水でという現実的な路線に変更していったようです。
大久保の意を受けて現地を固めるのは
福島県令だった安場保和。
元熊本藩士で横井小楠門下の四天王として頭角を現す秀才だったようです。
戊辰戦争で功を成し、はじめ胆沢県(現在の岩手県の一部)の大参事となり、後藤新平や斎藤実などを見出したとされています。
その後、岩倉使節団に同行し欧米を視察し、帰国直後から福島県令となります。
安場の下で現場を指揮したのは中條政恒。
元米沢藩士で福島県典事として実務を担当。
まずは資金調達。郡山の豪商たちから出資を受けようと奔走しますが、
当初は「米沢のキツネにだまされるな」と相手にされなかったそう。
それでも粘り強い交渉で最終的には25名が出資に応じて、民間の開墾会社開成社が設立。
福島県の告諭書には「一尺を開けば一尺の仕合あり、一寸を墾すれば一寸の幸あり」
と疎水によってもたらされる開墾についての並々ならぬ思いが記されています。
公文書にも詩文味があるのは官吏たちに漢学の素養があるからなのでしょうか。
さて、大久保の強い思いがあって始まったこの事業の着工を彼が見ることはありませんでした。
その日も安場に代わって福島県令となった山吉盛典と面会していたそうです。
安積疎水の件について細やかな指示があったかと思うと、
有名「済世遺言」を述べたのもこの時だったと伝えられています。
曰く
明治初めの10年は兵事が多く創業の時代。
続く10年は内治を整え、民産を殖やす時代
最後の10年は後進を育てる時代
と見通しをの述べたとのこと。
ようやく内戦が終息し、これからの10年に取り組んでいこうと
決意を表したその日に凶刃に倒れてしまうとは何とも出来すぎたような話。
安積疎水は明治12年(1879)10月27日に開成山大神宮において起工式を行い、28日着工されました。
不可能だと思われた疎水工事はわずか3年1月で大きな事故もなく完了します。
水路の長さは130キロ。動員延べ人数は85万人、総工費40万7千100円(およそ現在の貨幣価値で450億)とのこと。
明治15年8年に試験通水を実施して明治15年10月1日に開成山大神宮にて報告祭を執り行い、右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義らの要人も出席したと言います。
疎水ができたおかげで米の作付け面積は4000haから1万ha以上に増え、収穫量も10倍以上となったとされます。
副産物として生まれた産業である鯉の養殖も現在全国一を誇るまでになりました。
さらには疎水を利用した水力発電が我が国初の長距離高圧送電に成功し、紡績や繊維産業の発展にも寄与したとのことでした。
3、人物評の難しさ
実は安積疎水の設計に関わったファンドールンというオランダ人技師は、宮城においては野蒜築港という新たな水運の拠点整備にも意見を述べています。
というかむしろ野蒜を適地と選んだにも関わらず、実際には築港工事は難航し最終的には廃されてしまいます。
品井沼という大きな干拓事業も採算性が合わないという報告書が出されたにも関わらず、事業は完遂されました。
あまり宮城では評価は高くありませんが、郡山では地元の発展に尽くした偉人として銅像が建っているそうです。
さらには戦時中の金属供給に取られまいと、
一時土の中に隠したとの逸話まで残っています。
所変われば人の評価は全然変わってくるという好例でしょうか。
これだから歴史は面白いですよね。
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