第776回 人を送る時、弔うときに納めるものの変化
1、読書記録120
本日は
最近読み直した
2014『講座東北の歴史』第五巻 信仰と芸能より
田中則和 「率都婆 中世人の死生救済祈願」
の内容をご紹介していきたいと思います。
2、率都婆の考古学
テーマは率都婆(そとば)。
現在でも墓地に行けば木製の長い板を目にすることがあるかと思います。
あれは中世からあった習俗でした。
筆者は宮城県仙台市の洞ノ口遺跡の調査成果から話を始めます。
ここでは区画整理事業に伴い、平成4年から13年にかけて発掘調査が行われました。
その一画から多くの木製率都婆類が出土したのです。
(図版出典は仙台市文化財調査報告書281集より)
その内訳は
①五輪塔形板塔婆とそれを打ち付けた枠 (44点、全て七本組だとすると6組)
②頭部三角形板塔婆(14点)
③棒状塔婆(31点)
④杮経(血盆経41点、転女成仏経7点)
というもの。
この地に領主層の屋敷があったと考えられるのは16世紀前半までで、その後で周囲の溝にまとめて廃棄されたと考えられています。
近隣ではお墓の遺構が見つからない一方、火葬骨が散らばっていることが確認されたので納骨堂があったのではないか、と推定されています。
田中氏は先ほどの内訳に沿って個別の機能について整理すると
①真言宗の「七本塔婆」という葬送習俗
②追善供養
③墓所を結界する柵
④女人供養
と考えられると言います。
そして『師守記』という南北朝時代の公家、中原師守の日記や
『私案抄』という15世紀前半に書かれた天台宗僧侶長弁の書など
文献に現れる「率都婆」についても触れられています。
類似する出土例としては
木製五輪塔形板塔婆150点以上出土した大阪市阿倍野筋北遺跡、
杮経、笹塔婆、板塔婆、柱状塔婆などが20点ほど出土した秋田県男鹿市脇本城跡お念仏堂地区、
「十三仏」と墨書された大量の笹塔婆が出土した青森県青森市新城平岡遺跡
などが挙げられています。
3、葬送習俗がかわるとき
一番重要な論点となるのは
木製率都婆がになった役割について。
田中氏は板碑習俗の後継として現れたのではないかと推定しています。
中世の前半、ミヤギでは板状に割れる石材を使って
膨大な量の石製塔婆が各地で建立されます。
それがある時から継続して作られ続ける地域と減少していく地域に分かれていきます。
田中氏はその要因として、石材流通を取り仕切っていた大崎氏と留守氏の対抗関係を読み取っていますが、その是非は置いておくとして
板碑が本来持っていた供養の機能が分化していく、という説明はすっきりします。
板碑が担った役割が①墓塔②供養具としての木製卒塔婆、③霊の依り代としての位牌と分化していく、という理解。
私自身も大量に出土した近世の木製卒塔婆を整理していく中で、
これまた板碑が減少した後に大量に見られるようになる凝灰岩製の五輪塔などとの関係を悩んでいましたので、
実感として説明がしっくりきます。
石製の板碑から木製の卒塔婆へ、
その変換の事実を示す好例が本書で紹介されていました。
それは、埼玉県東秩父村浄蓮寺境内の題目板碑。
最初に画像を載せた洞ノ口遺跡出土の卒塔婆に似てませんか?
この板碑は文禄4年(1595) 浄蓮寺13世日栄の初七日から四十九日までの七基の板塔婆を刻むもので、
わざわざ木製の卒塔婆を石に描いたかのようです。
4、ものの始まり
いかがだったでしょうか。
卒塔婆の話、研究の最前線をお伝えできたでしょうか。
普段何気なく見ている景色の中にあるモノが
実はいつからあるか知らない、ということありませんか。
偶然の発掘調査例が各地で蓄積され、
それらを解釈するために文献にあたる、
そんな取り組みがあってようやくおぼろげになることだったります。
この連載でも少しずつ、そんな話題にも触れていければと思います。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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