第668回 削ぎ落としてこそ光るものがある
1、読書記録 103
本日はこの本
鳥尾新2019『水墨画入門』
漢詩の次は水墨画っていかにも文人趣味ですよね。
2、魅力が溢れでる
これまで博物館、美術館でよく水墨画を見る機会あったのですが
この本を読んでからだったら何倍も楽しめたな。
そう思える良書です。
書中で重要になる作品の一部は口絵で掲載されていますし、
新書にしてはモノクロ図版も多い方ではないでしょうか。
本来「詩書画三絶」というように漢詩と書道と絵画を一人でこなすことを至高とみなしてきた価値観が
西洋美術に対応していく中で、分裂してしまったという文化史も
簡潔な説明で理解が深まります。
墨と筆と紙という、水墨画に欠かせない材料についても解説がなされており、
例えば筆は秦の始皇帝が将軍蒙恬から献上されたものがはじめとされているが
それより前の時代のものが発掘調査で出土しているとか、
紙も後漢の蔡倫が発明したことになっていますが
前漢代の遺物が出土しているとか、
豆知識的な情報も心地よいですね。
そして徐々に水墨画が体現する芸術としての精神に話が及びます。
第一には毛筆を走らせ、紙の上に墨を染み込ませることの身体性。
その自由な楽しさが人を魅了すること、それは義務教育で習字を学んだ人であればイメージできるのではないでしょうか。
水墨画にどのような技法が使われているか知ることで
画家がどのように体を動かしたかも想像できるということ。
翻って、現代はキーボードやスマートフォンの画面を操作して多くのことが済んでしまう時代。
さらにはスマートスピーカーが進化普及すれば声で操作も増えていくことでしょう。
人間が実際に体を動かして行う娯楽分野が減っていく中でこそ
書画が見直されてくるのではないか、との発想は斬新でした。
最近はやり始めたように思っていた「パフォーマンス書道」も歴史的に古くからあったものだとも解説されています。
第二に想像力を働かせて初めて味わうことのできる美術だということ。
筆を惜しむこと金の如し
墨を惜しむこと命の如し
と言われるほど省略が進むのも水墨画の特徴。
霞や霧、ときには風まで「かたちなきもの」を墨の濃淡と筆の使い方で表現する世界。
本来水墨画には「余白」はない、と著者は断言します。
雪山や月、雲など何かを表現しているのだから。
3、ターニングポイントは
安倍仲麻呂は「雪中芭蕉」という名高い水墨画を残した王維と親しく、
帰国に際して長文の序を添えた詩を贈られたといいます。
そこから著者は仲麻呂が無事に帰国できていたら日本の絵画史が変わっていたのではないかと夢想します。
確かに唐代の美術として日本が受け入れたのは高松塚古墳の壁画に見るような著色画。
日本に墨絵が定着したことがわかるのはもう少し後。
例えば鳥獣戯画などに見られる墨の表現は巧みですが
同時代であるはずの北宋の山水画はほどんど日本に入っていた形跡が見られなかったとのこと。
画期はやはり禅宗の本格的な導入です。
蘭渓道隆に代表されるように、生粋の中国人が本場の中国文化を身に纏って、さらには必要なスタッフを連れて来日したことが挙げられています。
もともと本場では水墨画は禅宗の専売特許ではなかったと言います。
茶の湯にしても、あちらでは富裕層では一般的な文化であったのに
我が国では禅僧が文化全体の窓口になったために「禅」のレッテルを貼られただけだと言います。
文化史についても先入観にとらわれない見方が大事だということがよくわかりました。
他にも
かの文人皇帝徽宗が画院の採用試験でどのような回答をしたものを評価したのか、という話題や
本来水墨画の鑑賞は時間がかかるもので、特別展で人がごった返しているような場では魅力を汲み取れないという話も
もっと掘り下げたくなるテーマです。
私の中の理解で言うと、
奇人が当たり前でない発想で描いたものを、面倒な手順で解釈する、その手間を楽しむのが水墨画ということでしょうか。
まだまだ道は遠いですね。
さて本日も最後まで読んでくださった方に向けて宣伝。
3月1日に宮城県松島町で、講演会をメインとした歴史イベントを実施します。
入場は無料で、近代の地域史について、最先端の成果を目の当たりにすることができますよ。
100名が上限の会場に事前申し込みだけで70人を超える応募がありました。
ですが、いつもの常連さんだけではなく、
このようなイベントに参加したことのない方にもぜひ足を運んでいただいて
感想などをオフ会で語り合いたいと思いますので、
少しでも興味を持たれた方はこのnoteにコメントでもいいですし、
TwitterのDMでも、Facebookのメッセージでも構いませんので
ご連絡いただけると幸いです。
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