第881回 宮城の考古学はまだまだ熱い
1、待ちに待った学会誌
今回は私も所属する地元学会誌の最新号が刊行されたので、それを紹介したいと思います。
宮城考古学 第22号
2、古墳特集から古代城柵、石器に中世城館まで
特集1として2019年5月11日に開催された当学会の研究発表会の記録が掲載されています。
特集2では毎年継続して報告がなされている、東日本大震災からの復興事業に伴う発掘調査の記録や文化財レスキューについてが紹介されています。
そして論文が5本、研究ノートが2本、資料紹介が2本。
時代も分野も多彩です。
展望として、平成28年に起きた熊本地震によって甚大な被害を受けた熊本城の復旧支援として派遣された文化財専門職員のレポートと
現在整備が進められている多賀城跡の南門周辺についての報告が掲載されています。
今回特に抜き出して少し詳しくご紹介したいのは
佐藤信行 「線刻五輪塔板碑ー宮城県内の線刻塔形板碑を中心にー」
という論文。
線刻板碑というのは、中世・13世期から15世紀に流行した板状の石でできた供養塔の中でも、
版面の中央に大きく五輪塔などを刻み描いている特殊なもののことで、
板碑の発祥地である武蔵国ではほとんど見出すことができないといいます。
全国的に見ても宮城県の一部地域以外では新潟県と徳島県くらいでしか確認できないということ。
まずは集成。県内の類例は50基で、これを五輪塔の形をそのまま刻んだものをⅠ類に、梵字をデフォルメして塔の形にしたようなものをⅡ類に大別します。
Ⅱ類は双円性海塔というらしいです。
(愛知県稲沢市の絵画資料)
Ⅱ類が県内各所にパラパラと分布するのに対して、Ⅰ類は県東北部にまとまり、最古の事例が石巻市の河北町にあることから、発祥の地であることも推定されています。
分析は石材、形態、荘厳形式など多岐に渡りますが、
火輪という上から3番目の部材が形態によって5つに分類され、その最初期に位置する形態は、現在県内に残る石造五輪塔の形態とは大きく異なることから
初期の線刻五輪塔のモデルは紙本などに由来するのではないか、と推定しているところは気になります。
一方で制作年代が14世紀に降る火輪Dという形態については同時代の石造五輪塔と類似するものとなっているのです。
その転換期になにがあったのでしょうか。
ここは別に考えてみたいところですが、先を読み進めます。
類例として挙げられている新潟・徳島県の例でも1300〜1310年代に安定的な造立をみる、という共通点がみられるものの
終わりは徳島県が1570年代と差が大きいことも指摘されています。
著者は一見強い関連性がありそうに見えるが、おそらく直接的に関連があるのではなく、何らかの宗教的影響を受けて同時期に別な場所で発生したもの
と考えているようです。
何らかの宗教的影響
それが気になるんですよ。
一つの可能性として、新潟県のこのタイプの板碑が集中している旧村松町は真言宗が盛んな地域であるので
宮城においても真言宗寺院の主導があったのではないか、と推定します。
3、現象の淵源と派生先
いかがだったでしょうか。
同じような形態の遺物が離れた場所で見つかると
つい互いに影響しあったのか、と思いがちですが
板碑のような宗教性が強いものは源流が同じであっても
枝分かれした先でたまたま同じような現象が起きた、ということもあるのでしょう。
逆に言えば、他の地域では他の要素を採用した可能性もあるということ。
線刻の五輪塔を刻む板碑というスタイルを選択した地域同士で
関連はなくても共通点はもっとあるのかもしれませんしね。
もう少し考察を深めてみたいところです。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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