第1201回 意外なところで名を残す
1、日本刀レビュー118
今回はディアゴスティーニの『週刊日本刀』118号をご紹介します。
ちなみに前回はこちら。
2、僧侶も名刀を持つ時代
巻頭の【日本刀ファイル】は景光・景政。
ここにきて初の合作刀の紹介です。
備前長船派の三代となる景光は鎌倉時代後期から南北朝時代中期、
作刀期間が40〜60年に及ぶことから2代もしくは3代で名乗っていたのではないかとされています。
一方で景政は来歴が不明確で長船派二代の長光や景光の子であるとか弟子であるとか諸説紛々です。
掲載作は秩父の豪族である大河原時基が播磨国宍粟郡の地頭として赴任してきた際(嘉暦4年:1329)に発注したもので、同国の広峯神社に奉納されました。
その後、長い時を経て豊臣秀吉が播磨国に侵攻した際に入手し、徳川家康に下賜したとされます。
さらに時を経て四代将軍家綱が宇都宮藩主であった奥平忠昌に下賜し、かの家に伝承していきます。
現在では埼玉県歴史と民俗の博物館に所蔵されているとのこと。
続く【刀剣人物伝】は日蓮。なんと僧侶が登場です。
というのも「天下五剣」に数えられる「名物数珠丸」にゆかりがあるからにほかなりません。
備中国青江恒次の作品で、日蓮が身延山に入った際に当地の地頭から寄進されたもの。
山に一人で入ろうとする日蓮の身を案じてのことだったそうで、日蓮が数珠をかけてこの刀を佩用したので「数珠丸」と呼ばれるようになったとされます。
日蓮死後は久遠寺の寺宝となり、現在では兵庫県尼崎市の本興寺に所蔵されています。
実は北条弥源太という支援者も三条宗近の刀を日蓮に寄進したとも伝えられています。
僧侶といえども自らの身は自分で守る、という時代ならではですね。
【日本刀匠伝】は正広。
備後国の尾道周辺で作刀した三原派の刀匠です。
三原派の発祥は平清盛の瀬戸内海交易の整備に伴って大和から移住してきた刀匠たちにはじまるとされ、
初代の正広は「大三原」と呼ばれて珍重されました。
豊臣秀吉から浅野幸長が拝領し、代々広島藩に伝来した「名物大三原」や
真田昌幸が朝鮮出兵の恩賞として秀吉から拝領したと伝わる無銘の刀もあります。
三原派は「古三原」「中三原」「末三原」と鍛刀時期の区分がされているとのことで、
「中三原」段階には明への貿易品として重視され、16万振りが生産されていたという説もあるようです。
最後に【現代の日本刀カルチャー】として「御物刀剣」が解説されています。
純粋な意味での「御物刀剣」は現在も宮内庁が管理する皇室御物として保管されているもの。
昭和天皇が崩御した際に4600件の私有財産があったものを「皇位とともに受け継がれるべき由緒ある宝物」として厳選されたものが580件。そのうち刀剣がどのくらいあるかは明瞭ではないようですが、
伝説の名工天国の「小烏丸」の太刀や後鳥羽院の「菊御作」、天下五剣の「鬼丸」など錚々たる名刀が列記されています。
一方で平成以前に国有化されたものはすでに東京国立博物館などに所蔵されており、
毛利藤四郎や獅子王など本誌でもすでに登場した名刀の名が挙げられています。
さらに平成以降に国有化したものは三の丸尚蔵館に収蔵され、
京極正宗や浮田志津という名前が記されています。
特に三の丸尚蔵館は無料開放されているので刀剣が展示されている機会をとらえて訪れてみたいですね。
3、名を残すには
いかがだったでしょうか。
「天下五剣」という最上級の賛辞によくする一振りが、地方の一豪族から僧侶に寄進されたもの、という事実はなんとも興味深いですが
やはり日蓮という強烈な個性ゆえのことなのでしょうか。
【日本刀ファイル】に登場した景光•景政の太刀も
長文の銘を刻ませて奉納した刀が残ったからこそ
秩父の一豪族の名前が残ったという見方もできます。
歴史に名を残す、のは形もさまざまといったところでしょうか。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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