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第747回 開祖×求道者

1、日本刀レビュー47

今回は週刊『日本刀』47号をご紹介します。

ちなみに前回はこちら。

2、二人の開祖

巻頭の【日本刀ファイル】は水心子正秀。

新々刀の開祖ともいうべき名工です。

刃文の美しさよりも

折れず、曲がらず、よく斬れることを優れた日本刀の条件とし、

復古調の実用刀を模索します。

100人以上の門人を育て、数多くの刀剣書を著したことも開祖たる所以です。

日本刀の鍛錬が弟子に口伝で伝えられていた時代に、その極意を書き残したことは重要な意味をもっていることでしょう。

掲載作は

文化十五年春二月 応徳山侯需造之

という同じ銘が刻まれた刀と脇差です。

正秀晩年の作品で、長州藩の支藩である徳山藩主毛利広鎮の依頼により作られたことがわかります。

現在では同じく毛利家一門、吉川家の岩国藩内、岩国美術館に所蔵されています。


続く【刀剣人物伝】は小早川秀秋。

関ヶ原の戦いで勝敗の左右した裏切りで知られていますが、実は愛刀家であったとは…

朝鮮出兵の慶長の役では総大将格となり、豊臣秀吉から「波游ぎ兼光」を拝領しています。

その名の由来は、なんとも豪胆なもので、あまりに切れ味が良すぎて

斬られた男がそれに気づかず、川を向こう岸まで泳いでから

体が真っ二つに割れた、というもの。

秀秋は朝鮮でこの太刀を振るって、自ら13人もの敵兵を斬ったとも伝えられます。

豊臣秀次の解釈ににも使われたとされるこの刀は、のちに徳川家康を経て

松平忠輝、立花宗茂に伝わったとされています。

また、秀吉から賜ったとされる「安宅貞宗」は三好長慶の弟安宅冬康が所持してたとされ、秀秋の死後は徳川家に伝わっていましたが、焼失。

江戸時代に越前康継による写しが作られ、福井県立歴史博物館に伝わっています。

さらに秀吉の形見分けとして秀秋が手にしたのが「岡山藤四郎」この名称は岡山城主であった秀秋にちなむものです。

関ヶ原の合戦後に徳川家康に献上され、徳川義直を経て、明治天皇の手に渡ったとのことでした。

【日本刀匠伝】は光忠。

備前長船派の始祖とされる刀匠です。

鎌倉時代中期に活躍し、幕府が全国から業物を報告させた「注進物」に名があり、

豪壮華麗な外観と素晴らしい斬れ味から、戦国武将に絶大な人気があったそうです。

本書には生駒一正が所持した「生駒光忠」と豊臣秀頼から徳川義直に送られたという太刀が掲載されていますが、

毛利輝元が厳島神社に寄進した小太刀や三菱財閥の岩崎小弥太が昭和天皇に献上した太刀など数多くが現代まで伝わっているようです。

【日本刀ストーリー】は佐藤寒山。

前回ご紹介した本間薫山とともに戦後間もなく日本刀を守るために尽力した人物です。

山形県鶴岡市の旧庄内藩士の家に生まれ、刀剣鑑定士だった伯父や同窓の先輩である薫山らの影響を受け刀に魅了されていきます。

國學院大学を卒業後、秋田の中学校で教師をしていましたが、

刀剣の勉強するために上京、現在の都立高校教師をしながら

文部省の国宝調査室の嘱託も兼務することになったようです。

薫山とともに何十万振りとも言われる「赤羽刀」の調査を経て

財団法人日本美術刀剣保存協会の理事に就任します。

研究家として数々の著作を出版するとともに、若手研究者に指導を行い、

たたらの復活にも着手しました。

復活した玉鋼を用いた試作刀を見届けてからわずか3ヶ月で病に倒れ、

世を去ってしまうところは、刀剣に人生をかけた男らしいというところででしょうか。

3、道を極めた者

いかがだったでしょうか。

巻頭グラビアで紹介されている正秀の作刀は

実用刀といいつつも、洗練された刃文が見え、爽やかな美しさを感じてしまいます。

小早川秀秋も、どうも裏切り者というレッテルや気の弱そうな肖像画から

イメージする姿と刀剣を愛好し、自ら刀を振るって敵兵を切り捨てる実際の姿がどうしても一致しません。

先入観を払拭するのは大変ですね。

正秀と寒山という時代も立場も全く異なる人物が

刀剣を研究し、多くの著作を残した、という点で繋がっているのも面白いですね。

どちらも大成するまで苦労している姿も重なってしまいます。

どの分野でも道を極めた者は似た雰囲気をもっているものかもしれませんね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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