第889回 名刀の最大の役割は贈答品
1、日本刀レビュー65
今回はディアゴスティーニの『週刊日本刀』65号をご紹介します。
ちなみに前回はこちら。
2、天下の名剣も人の手を経て
巻頭の【日本刀ファイル】は圧切長谷部。
作者は長谷部国重。
奈良の生まれで、鎌倉で正宗に師事して相州伝を学び、
上京して五条の坊門猪熊という京洛の中心地で作刀していたと伝えられます。
掲載作は織田信長が茶坊主を無礼打ちにしようとして、隠れた棚ごと圧し斬ったことからその名で呼ばれています。
信長から黒田孝高に下賜され、福岡藩黒田家に伝来することになります。
本来太刀であったものが磨り上げられて打刀となったため、無名となりましたが、
本阿弥光徳の見立てにより「長谷部国重」と「黒田筑前守」と象嵌で刻まれたようです。
【刀剣人物伝】は徳川秀忠。
天下人である父徳川家康から多くの名刀を受け継ぎ、贈答を通じて諸大名と関係を深めています。
受け取ったものとして最も名高いのは「五月雨郷」。
黒田長政からの献上品ですが、
この刀だけいつも霧がかかっているように見える、五月雨とはよく名付けたものよ。
と語ったとされています。
娘である千姫が嫁いだ豊臣秀頼からは、奈良屋貞宗、蜂屋江、
豊臣秀吉の正室北政所からは遺品として三日月宗近が贈られました。
逆に贈ったものとしては
甥にあたる松平忠直に童子切安綱を
千姫が再嫁した本田忠刻には観世正宗を
尾張徳川義直へは不動正宗、
紀伊徳川頼宣へは吉平の太刀、
加賀藩の前田利常には平野藤四郎、池田貞宗が列記されています。
こうしてみるとさすがは二代将軍。多くの名刀を縁があるのですね。
続く【日本刀匠伝】は次直。
備中国青江派を代表する刀工です。
代表作はなんといっても徳川美術館蔵の刀。
磨り上げられて短くなっているにもかかわらず、刃の長さは84㎝もあり、
南北朝時代に流行した大太刀であったことがわかります。
腰にさげて抜くことができないので、抜身で騎馬武者が肩に担いでいるところが
よく絵図にも描かれています。
この刀は犬山城主成瀬正成が所持していましたが、主君にあたる尾張徳川光友に献上したことで代々受け継がれていったようです。
他には徳川秀忠から伊達家に伝来した短刀(現在は東京国立博物館蔵)や
伊藤巳代治が愛蔵していたという短刀、毛利元就の八男、元康が所持してた「朝霜次直」
紀伊徳川家に伝来した刀などが紹介されています。
これだけ名品が伝わっているのに、刀匠の個人的なエピソードはもちろん、
系図も不明で謎に包まれているようです。
そして【日本刀ストーリー】としては隠岐の後鳥羽院伝説と題して
自ら刀を打ったとされる後鳥羽上皇の物語が紹介されています。
なんと承久の乱で配流になった隠岐島でも刀を打っていたという伝説もあるようです。
彼の地には鍛冶屋敷という屋号で、備前助則など御番鍛冶の子孫だと伝わる一族もおり、
刀鍛冶に使用したとされる古井戸まであるといいます。
これにちなんで後鳥羽院遷幸800年を記念して
令和3年に新たな御番鍛冶による作刀を行い奉納する企画が持ち上がっているとか。
実際には罪人として配流され、警戒されていた後鳥羽院が刀鍛冶をできたかはわかりませんが
地域の歴史文化活用の一つとして期待されているようです。
3、伝説の多い人物
いかがだったでしょうか。
今回は圧切長谷部に始まり、天下五剣と呼ばれる三日月宗近や童子切安綱など
特に名高い刀の名称が飛び交う内容でした。
一方で青江派は資料が少なく、作品はあっても伝承がほとんど残っていないという残念な事実が紹介されました。
逆にこの先まだ世に出ていない資料が登場すれば大きく研究が進展する可能性を秘めている、ということにもなりますね。
そして後鳥羽院はなんともエピソードに事欠かない人物です。
明らかな間違いや、到底ありえないような伝承に基づいて歴史的事実のように
喧伝するのは良くないですが
信憑性も含めて丁寧に説明することで伝説も歴史文化普及の大きな力になってくれることでしょう。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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