第740回 伊達と最上の境目の領主の城
1、職場にご恵送シリーズ63
近隣市町から送られてきた文化財の調査報告書を独断と偏見に基づいて紹介していきます。
本日ご紹介するのはこちら
仙台市文化財調査報告書第482集
仙台市では小規模な開発に伴う発掘調査の報告書を毎年2冊出しており、
そのうちの一冊になります。
本書では洞ノ口遺跡、沖野城跡、郡山遺跡、六反田遺跡、富沢館跡、羽黒堂遺跡と多数の遺跡が取り上げられています。
その中でも今回は初めて本格的な発掘調査が行われた長楯城跡をご紹介します。
2、境目の領主の本城
長楯城跡は仙台市西部、旧秋保町にあります。
名取川という比較的大きな川とその支流獺沢川が合流する地点の段丘上に立地しています。
中世にこの周辺を治めていた秋保氏は伊達家に接近しつつも、山形県の最上氏にも縁戚を結んでいたため、警戒されつつ重宝もされていたようです。
(なお図版の出典は全て報告書です。)
城の北側には二口越えの出羽街道が通り、長袋宿が接しています。
現地には今でも土塁が残っており、幅5mほどの「大手道」も確認することができます。
居屋敷と呼ばれる最奥のところが本丸、領主秋保氏が居住する空間で、
④の土塁を挟んで③土塁までの間が家老の屋敷地、
③から②の間がそれ以外の家臣の屋敷地
と階層的な構造になっていたようです。
今回は南西側の市道の改良工事によって壊されてしまう部分の発掘調査がおこわれました。
その成果としては、城の土塁や堀の構造や
造られた順序が明らかになったこと、と集約できるでしょう。
調査区位置図でいうと④、SL1土塁は最大幅17m、高さも3.4mを測るものだということがわかりました。
並行するSD1堀跡は最大幅11.6m、現時点で残る深さは1.4mで逆台形をしています。
さてここからが重要な点なのですが、SL1土塁は表面に丸い礫を張って補強していたことがわかりました。
実は残存する他の土塁でも同様の構造は見られますし、
近隣の城館でも似た状況が確認されているので、
この地域全体に共通する築城技術であったかもしれません。
さて、もう一つ、SD1の堀底には暗渠が掘り込まれ、その上に土橋状の構造物が設けられていることがわかりました。
一時の戦支度で整えられたのではなく、豪族の本拠地として変遷の歴史を内包むしていることがよくわかります。
基本的にこの土木工事が行われたのは秋保氏が所領替えでこの地を離れる、
慶長8年(1603)より前だと考えられているようですが、
天明年間(1781〜89年)に秋保氏盛が再度この地を拝領していることから、
その頃の整備がどれだけ行われたかということを考慮に入れる必要がありそうです。
世が治った近世に180年振りに本領を奪回する秋保氏の執念にもおどろかされますね。
3、小さな成果も積み上げて
いかがだったでしょうか。
道路改良工事、という限定的な範囲の発掘調査でしたが、
中世から近世にかけての城郭の典型例として、大いに成果を挙げたと言えるのではないでしょうか。
大勢力同士の境界線上で生き抜くために、強固な城郭を構えた
強かな領主の姿がより一層はっきりと見えてきた思いがします。
本書には冒頭で述べたように、いろいろな遺跡での成果を合本にしたものなので
中近世の城郭や屋敷地の断片的な発掘調査成果が他にも掲載されています。
これまでに蓄積された調査成果と合わせることで、当時の様相がわずかでも鮮明になっていくのではないかと期待します。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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