第1245回 墓石と句碑

1、いいねの数だけ論文を Vol.1

Twitterでこんなハッシュタグを見かけたので、私もやってみました。

4桁のいいねがついている猛者も散見しましたが、私は現実的な数なので

どこまで行けるかチャレンジしてみようかと思います。

「一年で」「毎日」とかは後々苦しくなるので、緩くやっていこうかと思いますが、ちゃんと読んでいるよ、という証明のためにツリーでぶら下げてカウントしていこうかと思います。

条件としては

・一度読んだものでも、再度目を通せば可とする

は入れておきたいと思います。

基本的には現在の興味関心に沿って選んだものになっています。

あとは

・機関リポジトリなどで誰でもアクセスできるもの

を優先してチョイスしていけたらと思います。

そして読んだ論文について、自分の備忘録的な意味も込めて定期的にnoteにまとめていこうと思います。一週間に一回になるのか、10本くらい読んでからにするか。

それはやりながらちょうどいい塩梅を探っていこうかと思います。

2、墓石と句碑

1.池上悟2020「仙台藩の家臣墓」『立正大学大学院紀要』第36号

池上先生には大昔にお世話になったことがあります。

古墳時代の横穴墓の研究で名高く、考古学史にも造詣が深い先生で、

最近は近世墓の事例を集めていらっしゃることは存じておりました。

情報提供を頼まれていたのに全然お力になれないうちに

地元の事例をまとめ上げていらっしゃってたんですね。

仙台藩は一国一城令下にあっても、血縁の有力者や譜代の家臣が在地に居館を構えてやや自立的な支配を行なっていました。

当然彼らの菩提寺には歴代当主の墓所が営まれるわけですが、

これまで大名クラスの墓石研究を行なってきた経験を踏まえて

家臣クラスの墓石とどう違うのか、

お墓の序列はどう表現されていたのか、

本論文はそれを探るための「総体的把握」の一端であるという位置づけです。

結論としては、大名クラスと同様、幕府による御霊屋禁止令が出された享保5年以降は家臣クラスでも墓石のみがみられるようになり、

墓石の形態は時期ごとの流行や地域的な選択に依っているものの

大名墓と家臣墓では大きな断絶が見られなかった、とのこと。

今後の展開としては、より下層の武士階級の墓の事例を集めることと

近隣大名の墓制との比較研究が挙げられています。

前者の方向性であれば、私自身も調べてみようかと思います。


2.高橋陽一2015「石碑のある風景−近世の旅行者と松島−」『東北アジア研究』19

続いての著者も本業でお世話になったことのある先生です。

高橋氏は温泉地に残る文書資料や、紀行文にのこされた旅行者の記録から近世の旅について研究されています。

今回はそのものずばり我がフィールドを対象にしてくれているので、大変勉強になるとともに、大いに仕事に役立てられるデータを提供してくれています。

文化人を中心とした記録の供出ですが、61点の資料から

・執筆年

・旅行者

・松島での来訪場所

について列記した表を作成し、本論文での分析対象となる「雄島の石碑」について触れられているかどうかも詳述しています。

筆者が提示してくれた「負の効果」という視点は、観光地の深い理解のために欠くことのできないものです。

ここでは『おくのほそ道』の影響力が大きすぎ、感化された俳人たちがやたらと雄島石碑を立てるため、霊場としての景観が損なわれている、という見方が江戸時代のうちに複数例あったことが語られています。

聖地巡礼はいつの時代も盛んですし、特定の界隈だけで盛り上がってしまうと、他のジャンルの人からは引かれてしまう、という構図も現代でもよくあるものです。

この論文を索引にして実際の紀行文資料にあたってみる、という使い方は今後も行っていくことになると思われますので、

何度も読み返すことになりそうです。

3、第一回目は二本を紹介

さて、二つの論文を紹介したところで紙幅が尽きてしまったので

本日はここで閉じたいと思います。

今後もコンスタントにまとめていきたいと思いますので

またお付き合いください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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