第1143回 刀に対する態度も兄弟で違う
1、日本刀レビュー106
今回はディアゴスティーニの『週刊日本刀』106号をご紹介します。
ちなみに前回はこちら。
2、刀匠はまだまだ
巻頭の【日本刀ファイル】は光世。
平安時代末期に九州は筑後国三池に登場した典太光世を開祖とし、
南北朝時代まで続く流派として栄えたのが三池派です。
掲載作は加藤清正の菩提寺として建立された肥後国妙本寺に伝来したもの。
熊本藩主8代細川斉茲の差料だったと伝えられています。
極めて稀とされる初代光世の作刀ですが、
短刀ながらも表裏両面に「三池の打ち樋」とよばれる幅広い樋がみられ、
板目肌や焼刃の様子が「名物大典太」に類似するのも根拠として挙げられています。
【刀剣人物伝】は豊臣秀長。
刀剣に関するエピソードは多くありませんが、吉岡一文字の太刀を愛用していたとのこと。
生涯手放すことはありませんでしたが、没後に娘である菊姫が毛利秀元に嫁いだ際に毛利家に渡っています。
現在では刀剣ワールド財団が所有し、写真付きで掲載されています。
稀代の刀剣収集家であった豊臣秀吉から多くの刀が下賜されていたと推測されていますが、詳しくは伝わっていません。
逆に諸大名とともに新年祝賀の意味を込めて秀吉に太刀の進上を行っていた記録はあり、
『豊臣家御腰物帳』には「大和より」と記載のある刀があります。
例えば二字国俊、左文字、長光などがみられますが、後に徳川家康に送られた物吉貞宗もその記載があるようですね。
【日本刀匠伝】は正清。
すでに何度も登場している「一平安代」とともに徳川吉宗の「享保諸国鍛冶御改」で見出された、薩摩新刀を代表する刀匠です。
丸田派の正房に師事して藩のお抱え刀工ではありましたが、知行は15石程度しかなく、当初高い評価はされていなかったようです。
ただ、薩摩藩の家老、平田靫負が差料としていたことをもって、技量が突出していたので、相応の鑑定眼がないと見抜けないものだったのだろう、と本誌では推測しています。
吉宗から特別に許された一葉葵紋を刻んだ刀のうち
かの天覧「浜御殿打ち」から三年後の作例が徳川将軍家に伝来して
薩摩に里帰りしたものとして鹿児島県歴史美術センター黎明館に所蔵されているとのことで、写真付きで掲載されていました。
【日本刀ストーリー】では業物位列・大解剖②と題して
江戸幕府の試し斬り御用の山田家五代浅右衛門吉睦が著した『懐宝剣尺』の全リストを掲載しています。
なお、『古今鍛冶備考』というのちのリストでランクダウンしたもの、逆にランクアップしたもの、についてもその注意書きを入れながら紹介しているので有用です。
リストにはすでに本誌の過去号で【日本刀匠伝】などで取り上げたかどうかの記載もありますが、
案外トップランクの「最上大業物」でも
長船秀光、陸奥忠吉など未掲載が目立ちます。
「大業物」に至っては半数以上が未掲載です。
残り少ない巻数でどこまで紹介できるのでしょうか。
3、暑くて頭が働きません
いかがだったでしょうか。
やはり【人物伝】はネタ切れ感が否めませんが、【刀匠】はまだまだ取り上げていない人物もわんさかいますね。情報量が多くなくてスペースが埋められないかもしれませんが。
このレビューではあまり触れてきませんでしたが
【刀装具ぎゃらりい】でも古墳から出土した「環頭大刀柄頭」という「日本刀」とはちょっと離れたイレギュラーなものを紹介している印象もあります。
いろいろな意味で今後も目が離せませんね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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