第496回 南部領の中世城郭大集合

1、地域展で城郭をチョイス

前回、発掘された日本列島展2019のご紹介をいたしましたが

今回はその続きて地域展示

花巻城ー南部領の成立と展開ー

についてご紹介できればと思います。

なお写真はフラッシュを焚かなければOKと了承を得たので

今回撮影したものを掲載しております。

2、群雄割拠から南部の一統まで

花巻城は中世まで稗貫氏の本拠で、鳥谷崎城と呼ばれていました。

豊臣秀吉の奥州仕置の後に南部領と伊達領との境界にほど近く

また北上川舟運と穀倉地帯である稗貫・和賀地域を抑える重要拠点として位置づけられてきました。

稗貫氏は後に伊達の家臣となったため、

おそらく仮託によって古くに伊達家から分かれたことになっておりますが

本来の来歴は諸説あってよくわかりません。

少なくとも鎌倉時代末期頃には稗貫領主として文書に名前が見えます。

今回の展示でも

先屋遺跡で平安末期から鎌倉初期に平地に堀をめぐらす形の館跡が見つかっているので、稗貫氏に関連する遺跡だと推定されています。

展示されている遺物は中国定窯の白磁碗や竜泉窯青磁碗、渥美(現在の愛知県)の甕などは鎌倉時代に使われていたものと考えられますが、

瀬戸で焼かれた折縁深皿と瓦質の風炉は室町時代頃のものなので屋敷が拡張されながら継続して使われていたことが示唆されています。

隣接している地域を治めた和賀氏も来歴は諸説ありますが

近年では武蔵国(現在の埼玉県)の武士団である小野横山党の出身ではないかと紹介されています。

一族である鬼柳氏に伝わった文書には承久年間(1219〜22)には当地に下向していたことが記されています。

こちらも和賀氏の本城であったとされる二子城(北上市)や鬼柳氏の居城、丸子館の発掘が行われ、ともに14世紀代からの遺物が出土しているようです。

天目茶碗や茶壺、水滴など大名屋敷っぽい遺物が出土しています。

そして何と言っても南部氏の聖寿寺館(南部町)は別格ですね。

奥州街道を城の一部に取り込み、

周囲を断崖と大規模な空堀で守る堅固な構造。

これまでの発掘調査で領主や家臣団の屋敷跡と考えられる掘立柱建物跡や、倉庫や工房に利用されたと考えられる竪穴建物跡などが多数見つかっています。

天文八年(1539)に発生した火災により、三戸城(三戸町)に居城は移転されたとのこと。

出土遺物としては

金箔が貼られた土器や、青磁でも酒海壺や鉄斑文柑子口瓶などちょっと珍しいものが出土しています。中国の陶磁器でも藍色の釉薬が塗られた水注や皿、梅瓶などは初めてみました。

さらにはアイヌが作ったと推定される骨角製品も展示されており

東西の交易によって様々な文物がもたらされたことがよくわかりますね。

そして九戸城(二戸市)と花巻城は奥州仕置から近世にかけての時期変遷を

追うことができるように整理されて展示がなされていました。

それにしてもこの時期の東北は本当に不穏だったようで

天正十八年(1590)の和賀・稗貫一揆と葛西大崎一揆、仙北一揆

天正十九年(1591)の九戸政実の乱

慶長五年(1600)の岩崎一揆

と立て続けに体制に反する蜂起が続いています。

実際に九戸城二ノ丸の発掘調査ではこの時の犠牲者ではないかと推定される

人骨も見つかっているようです。

3、仙台領も負けじと

思いがけず、岩手県の中世から近世初頭の城郭について

出土遺物が一堂に会して、関連づけられた展示を見ることができて

僥倖でした。

そして思うのはミヤギでもいつかこのような中世のお城にスポットを当てた

展示会をしてみたいと思いましたね。

県内で中世考古学に興味のある仲間とやっている勉強会でそのような方向性に持っていけるといいのですが。

また一つ目標ができました。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。

ぜひ感想などお寄せくださいね。




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