第1035回 槍の穂先が長いのは何のため?
1、日本刀レビュー88
今回はディアゴスティーニの『週刊日本刀』88号をご紹介します。
ちなみに前回はこちら。
2、刀匠の盛衰は権力者次第
巻頭の【日本刀ファイル】は同田貫次兵衛。
といいつつ掲載作は大身槍という穂の長さが1尺以上ある槍先です。
同田貫は肥後国の豪族、菊池氏のお抱え刀匠だった延寿派の出身で
加藤清正が領主となった際に自らの名を与えて
「正国」と「清国」とした刀工から発展した流派で
次兵衛はその一員でした。
掲載作は
九州の戦国時代の雌雄を決したとも言える耳川の合戦で、
敗色濃い大友家中にあって島津家の軍を食い止めた佐伯惟定が所持していたと伝えられています。
その活躍を認められて佐伯惟定は藤堂高虎に仕えることなり
九州を離れ、伊勢国に移封しますが、大坂夏の陣でも武功を挙げたとされています。
その後、槍の来歴は不明瞭ですが、現在の和歌山県那智勝浦町の熊野妙法山阿彌陀寺に所蔵されています。
続く【刀剣人物伝】は宇喜多秀家。
豊臣秀吉の猶子(家督相続権のない養子)として遇され、関ヶ原の合戦で殉じた(八丈島に島流しになって長寿を全う)ことで有名な武将。
領地に備前長船があったことから刀の献上にも積極的で
逆に秀吉からは鳥飼来国次の短刀を下賜されています。これは関ヶ原後に家康から紀伊の徳川頼宣に下賜された後に、再度将軍徳川秀忠に献上されたとのこと。
この短刀を巡っては、家臣の進藤正次が秀家が自害したと偽りの報告を徳川家康に信じさせるために献上したとの伝説も残されています。
他にも石田三成に贈った石田正宗や妻の豪姫が実家の前田家に持ち帰った伯耆国住広賀薙刀なども愛刀だったとのこと。
秀家が所持していたことから「浮田志津」という名が付けられた短刀も関ヶ原後に家康から秀忠へ受け継がれ、池田光政に下賜され、さらには明治になって天皇に献上されたという来歴を持っています。
【日本刀匠伝】は宗次。
奥州白河藩出身の刀工で、かの清麿と対比される新々刀の名手です。
白河藩主松平定永が伊勢国桑名に移封になると、その江戸詰の藩工として四谷に鍛冶場を開きます。
試し切りの名手とされる「首切り朝右衛門」と交遊しその助言を鍛刀に活かしていたとも。
その朝右衛門が差し料にしていたとされる鍛刀が写真付きで紹介されています。
他にも個人蔵だからか文字だけでの紹介ですが、銘文に試し切りのことが刻まれた刀もあったようです。
お抱え藩工であったのに古賀藩主土井利位や宇和島藩主伊達宗城などからの注文にも応じて作刀していたのこと。
横綱であった稲妻雷五郎と合作したという珍しい経緯が刻まれた刀も紹介されています。
最後に【日本刀ストーリー】は関の刀が実戦的であったことの理由が語られています。
伝説としては鎌倉時代に九州から元重という刀工が移住してきたとか、
南北朝時代に金重という正宗の門人が移住してきたとか語られていますが
元寇に対する軍備の増強という追い風にあって発展を遂げていきます。
孫六兼元や志津三郎兼氏、和泉守兼定などの名工を輩出して一大生産地となったようです。
一方、実用的で「武器性能、短納期、低コスト」のバランスを満たす関鍛治の製品は織田信長から朱印状を受けるなど優遇されていましたが
現在の鑑賞視点からは軽んじられているとのこと。
その強度の元となる独特の刀身構造について、貴重な断面写真とスケッチで解説されているのは興味深いものでした。
3、戦法が形を決める
いかがだったでしょうか。
今回は槍が大きく取り上げられたことが特徴的です。
大身槍という刃先が長いものが珍重されたのは朝鮮出兵で
騎馬戦を得意とした李氏朝鮮や明の軍と戦う際に
敵の馬の足を払い、落馬したところを刺突する、という戦法がとられたため、
ということが紹介されています。
加藤清正の同田貫に限らず、島津家でもお抱えの波平派刀工を朝鮮半島まで随行させた、といいますから
現地での戦術に合わせた刀作りがされた可能性は確かにありますね。
現代人は刀剣を美術品として見がちですが、当時の人にとっては武器。
武士たちの商売道具だったわけです。
実用の美という観点もありますが、現在とは価値基準が違ったと考える方が正解に近いのでしょうね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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