第334回 勝手に考古学用語解説 No.10 板碑
1、こんな日には悲しいニュースも
今日は季節外れの雪が深々と降り積もっています。
ミヤギはよく冬の終わりに最後の雪が降り、桜と共に眺めることもできます。
さて、今日は勝手に師匠と仰いでいる考古学者さんから、とある町の板碑が復興事業のどさくさで失われてしまっているのではないか、というお知らせをいただきました。
そこで今日は板碑について用語解説をしていきたいと思います。
ちなみにトップ画像は南三陸町の沢内板碑群です。(南三陸町visual museumより転載)
もちろん板碑が失われた町と上記画像は一切関連がありませんので誤解なきよう。
2、板碑のある風景
まず言葉の定義については以下の事典から
坂詰秀一編 2003『仏教考古学事典』
「板状の石碑」から由来することは容易に想像できるかと思いますが、考古学的にはより限定的に使用します。
曰く、石製の塔婆。卒塔婆、供養塔。
主に中世と呼ばれる時期のものを指しますので、江戸時代にも同じ石材を使った供養塔があったとしても「板碑」とは呼びません。
むしろ戦国時代くらいには木製の卒塔婆に取って代わられるイメージです。
現代の卒塔婆(仏事の豆知識より転載)
板碑の発祥は武蔵国、今の埼玉県、荒川の流域で産出する緑泥片岩という板状に割れる石を用いたものが全国に広がり、その土地その土地の石材を使って作られるようになります。
北は北海道、南は鹿児島まで粗密はありつつも分布しています。
その特徴はなんといっても梵字(サンスクリット語)で仏様を表す種子。平安時代末から広まった末法思想、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいという信仰が広まったことから阿弥陀仏を表す「キリーク」という文字が多いですが、大日如来や地蔵菩薩を表すものも少なくありません。
典型的な武蔵型板碑の構成(練馬区HPより転載)
天蓋や瓔珞といった仏堂内部のような装飾が描かれるものもあり、時には花瓶や燭台まで表現されているものも見られます。
近親者の供養のために何回忌という年に建立することもありますし、生前に自分が極楽に往生できるようにと建立する「逆修供養」も盛んに行われました。
全国への広まりは関東武士の移動の証左になるとも考えられますし、建立の年月日が刻まれることもありますので、古文書の残されていない地域ではより貴重な資料とされます。
また石そのものも板状に加工しやすいという条件で各地のものが採用されていますし、その地域内での流通網の復元になるという点で非常に重要です。
板碑から地域の歴史を復元する一つのいい例を以前noteで書いたのでよかったらぜひご参照ください。
3、自分のできること
昨日のnoteでも触れましたが、出土遺物は来歴があってこそ歴史的価値があるということ。
板碑は「そこに建てられたこと」が最も大事な情報になります。
東方にあったとされる浄土に開かれた景勝地に立っていたのか。
子孫の屋敷地を見下ろす高台にあったのか。
当時の街道沿いや集落の末端にあったのか。
もともと立っていた場所から移動させられてしまえばそれを考える情報が失われてしまうことになります。
被災地の復興のためとはいえむやみやたらと動かしてしまうことは極力避けるべきこと。
必要であれば工事の際に一度どかしたとしても元あった場所に再度戻されるべきものです。
そのような配慮がされるかどうかは、地元が大事にしているか、解説板を設置するなど普及活用に取り組んでいるか、ひいては自治体が指定文化財にしているかによって決まってくるでしょう。
地元の人も特に気に留めず、文化財保護法でも規制はない、となれば工事の支障になるものでしかありませんから廃棄されてしまったとしてもおかしくありません。
我々役所の文化財担当者にできることは、歴史的な資料価値を少しでも地元の方に理解してもらいつつ、信頼関係を築いて、万が一失われてしまう懸念があった時には知らせてもらえるようにすることしかないのでしょうか。
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