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『映画 ゆるキャン△』やはりそれは、極めて優しいファンタジー。

 TVアニメ『ゆるキャン△』には、命を救ってもらった恩義を感じている。

 全世界を混乱に陥れた疫病が広まった最初の年、その感染対策と社内の新規事業に携わったタイミングが嫌な形で合致し、どんなに努力しても売り上げは上がらず、正解のない業務に絡めとられ残業時間は過労死ラインを余裕で突破していた。

 そんな折にふと1話を再生して、じんわりと暖かいスープを飲んだ時のような安らぎにふと涙してしまった。1期は寝る前の心の休息として、2期は放送時にリアルタイムで追いかけて、彼女たちの地に足の着いた日常描写に荒んだ心が解きほぐされていった。仮にあの時『ゆるキャン△』に出会っていなかったらと思うと、なんだか怖くなってしまう。それほどまでに大切な作品になってしまったのは、思いやりに溢れた人々が紡ぐ摩擦の無い『ゆるキャン△』の世界に、どうしようもなく憧れを描いているに他ならない。

※以下、『映画 ゆるキャン△』のネタバレが含まれます。

 では、待望の新作映画はどうだったかと言えば、私が『ゆるキャン△』に求める全てが何一つ欠けることなく受け継がれていたことへの安心が、全ての評価に勝ってしまう。なでしこたちが大人になっても、この世界に生きる人々はみな優しくて、理不尽な災害や病魔が日常を侵すこともない。自店の売上よりも顧客のニーズを重視したなでしこの接客は評価され、リンが自分のやりたい仕事に対し先輩が背中を押してくれて、千明の「キャンプ場を作る」という立派な公共事業にはかつての級友たちが手助けしてくれる。誰も貶められることなく尊重され、助け合いの精神が人と人とを繋ぐ。そのことをただひたすらに美しく尊いものとして描くからこそ、私はまだこの世に生を留めていられる。映画を観ながら止めどなく流れる涙は、私がまだこの世界から希望のようなものを受け取ることができた、そのことへの安堵によるものであった。

 TVシリーズに引き続き人間関係から生じる摩擦を徹底的にそぎ落とした本作は、彼女たちのDIY精神溢れる創意工夫や町の人々(パイセンたち)の協力が合わさって、荒れ果てた土地が徐々に整っていく様を見守ることになる。雑草が刈られ整地されていく様子は観ていてスッキリするし、大人であることを活かしてなでしこが大型重機を操縦するシーンの、あまりのサプライズっぷりに笑いが止まらなかった。合間に挟まれる調理シーンの完成度……というより我々の胃袋への攻撃力は群を抜いており、ここをゴージャスにするのは『映画 ゆるキャン△』として圧倒的に正しく、正しいからこその破壊力に涎が止まらない。つまりは、TVシリーズの良き部分をブラッシュアップし、映像の完成度を上げることで観る者の幸福度を底上げする、パワーアップ型の続編が本作なのである。

 物語はTVシリーズ2期からおそらく7~8年が経過した時間から始まり、リンは名古屋の出版社に就職して一人暮らし、千明は一度転職を経験するくらいには立派に「大人」をやっている。なでしこはアウトドア用具店で働くなど学生時代の経験を活かした仕事をしているし、あおいは小学校教師、恵那はトリマーになるなど、各々がそれぞれのフィールドで社会人をしている様子が断片的に描かれる。業種も生活拠点もまるで違う彼女たちが久しぶりにアッセンブルして執り行うのが、山梨の閉鎖された観光施設の、キャンプ場への再開発である。

 デカすぎるお題目が示す通り、本作のリアリティラインは意図的にボカされているように思う。寂れた土地の再開発だなんて本来は行政が業者に発注すべき仕事に対し、他業種の人間を立ち入らせるのは(ケガをした際などの)責任問題の観点や労働対価に関する世間の目を考えれば作中の山梨県さんは明らかに見て見ぬふりをしすぎだし、当の野クルメンバーたちも仕事をしながら自らの余暇時間を削ってのキャンプ場づくりは、時間と移動費などの捻出を考えればいかに現実的でないかは働いている大人であればすぐに察せられる。彼女たちは非常に人間が出来ているので本作では発生しないが、作業負担の偏りや費用面でのやり取りの齟齬から生じるいざこざがないのも、普通に観ていれば「あり得ない」はずだ。

 愛すべきキャラクターたちの年齢を引き上げる。それはすなわち、モラトリアムの終焉とは無関係ではいられず、彼女たちには否応なく「大人」としての立ち振る舞いや責任が求められるし、私含め本作に駆け付けた多くのファンは彼女たちが学生だった頃から失われたものへの望郷が描かれることへの覚悟をキメて座席を予約したはずだ。もちろん、そういう一面も描かれていたのだけれど、基本的には本作は「ゆるく」の姿勢を崩さなかった。この場合のゆるさとは、野クルの彼女たちと観客である私たちを傷つけるものを徹底的に希釈し、それらが顕在化しないように設定された、ある種の「幕」のようなものだと考えている。大人として/社会人として生活していれば当然起こりうるだろうコンフリクトを、少なくとも鑑賞中は意識の外に置いてしまうほどの強固な隠匿。

 そのことを誠実ではない、リアルではないという批判も、当然世の中には存在するであろうし、作り手も想定内のはずだ。だからこそ、完成した映画にはTVシリーズ同様の優しい世界観が徹底され、『ゆるキャン△』が『ゆるキャン△』であることを固持してくれたことに、私は途方もないほどに感謝をしている。このぬるま湯が存在することそのものが希望になる人もいる、ということだ。

 そう、私は『ゆるキャン△』をある種のファンタジーとして受け入れてしまっており、本作が社会人映画(という区分けがあるのかは定かではないが)としてリアルであるかどうかなど、評価の基準にはならないのである。20代の女性が一人暮らしをしながらキャンプ道具を揃えあまつさえ大型重機の免許を取りながら頻繁に山梨へ通うことがいかに現実的でないか(それを許す社会にこの国がなっているか)を考え出したら、この映画そのものが成り立たなくなる。大人になることの痛みを描きつつ、そのダメージを最小限の描写に止めたのは、「大人になっても彼女たちが“野クル”でいられるか」という問いへの答えに疑問符を投げかけてしまうからだ。彼女たちが彼女たちらしくいられる世界のために、本作は我々が住む現実と地続きになることを、意図的に避けているのである。

 それをままならない現実からの逃避とみなすか、心地よいぬるま湯と評するかは、映画を観た一人一人に委ねられているように思えるし、少なくとも私個人は「ぬるま湯派」だ。リアルな世知辛さを描く作品は、数えきれないほど世に溢れている。その磁場に『ゆるキャン△』が引き寄せられたら、きっと私は耐えられなかった。大人がツラいということは、現実で間に合っている。だからこそ、私は完成したフィルムを「正解」として、疲れた時にフラリと立ち寄る行きつけの温泉のような付き合い方を、本作としていきたい。

 彼女たちが「次」のキャンプについて語り合い、映画は終わる。その何気ないやり取りにまたしても、私の心は救われたのだった。

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