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『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [前編]君の列車は生存戦略』終着駅は、まだ見えない。

 エンドロール、クラウドファンディングにて支援を行ったファンの名前がズラリと並んでいるのを観て、一体今どんな気持ちで公開を迎えたのだろうと、劇場で想いを馳せた。TVシリーズ放送から10年と少し、社会情勢は良くなるどころかむしろ混乱を増していて、あの大震災ですら時折忘れ去ってしまいそうなほどに、ニュースは忙しない。そんな世の中での再演は、一体どんな景色を見せてくれるのだろう。期待と恐怖がぐちゃぐちゃに入り交ざる心は、私自身も他のファンと同じ土俵に立って新作劇場版を楽しんでいる証拠なのだろうか。

 最初に、立ち位置の話をしておかねば、と思う。私は『ピングドラム』を今月履修したばかりの新参であり、幾原作品は『ウテナ』を一通り観ただけでユリ熊嵐』や『さらざんまいも未履修。そのため、この10年を経ての幾原監督の作風の変化に言及したり、過去作との比較が出来ない身で、この文章を打っている。なんら信憑性がないということを念頭に置いて、読んでいただけると嬉しい。以下、ネタバレ全開なので、お気を付けください。

RE:cycle

 「きっと何者かになれるお前たちに告げる」
 
隣に座った男性の息を吞む音が聴こえた。おそらく私も、同じ反応をしていたと思う。

 予告編などでも事前にアナウンスされていた通り、今作は荻野目桃果が成長した容姿になって登場する。もうそれだけでも感無量なのだけれど、彼女の役目は幼い冠葉と晶馬の前に現れ、『かえるくん、ピングドラムを救う』という物語を読ませること―。この構成に、思わず唸った。

 本作はいわゆる「新作パートを追加したTVシリーズの総集編映画」の殻を被っていて、それは全く間違いではないのだけれど、実は微妙に違う。幼い冠葉と晶馬は映画が始まった時点では自分の名前さえわかっておらず、『かえるくん、ピングドラムを救う』という本を介しTVアニメ『輪るピングドラム』の物語を追想することで、自身の存在証明を行うことになる。この場において過去の路線(TVシリーズ)を知る桃果は、冠葉と晶馬は運命の果実を分け与えられる存在であること(=透明ではないこと)を知っている。だからこそ桃果は二人を「きっと何者かになれるお前たち」と呼ぶのである。

 なればこそ、ピングドラムが何であるか、などというのは今作の主題にはならない。TVシリーズの結末において冠葉と晶馬は、それぞれが互いや陽毬を大切に想うがあまりに自己を犠牲にし、運命の輪からはみ出してしまった。無償の愛は美しいが、犠牲も大きい。高倉家が高倉家でいられる優しい世界であってほしい。そんなご褒美を桃果が用意したくて、二人を「そらの孔分室」に誘ったのでは?というように私は受け取った。

 それだけでなく、本を読むことで『ピングドラム』そのものを再演することも意義深い。物語とは、始まりから終わりまで筋書きが決まりきっている一本のレールとも読み解けるため、そのレールの上を歩く登場人物にとってそれは「運命」と言い換えることも出来るだろう。運命、という言葉に人一倍強い想いを抱いている冠葉と晶馬が、別の線路にいる自分たちの物語=運命を読むことになる今回の劇場版、仮にそこに介入できるとしたら、どうだろう。この2022年に『ピングドラム』を再演するにあたり、ただTVシリーズと同じ決着を迎えるのはもう「古い」ので、作り手自ら運命の乗り換えに着手する。そんな狙いがあるのだとしたら、続く後編はどんな物語になるのだろうか、予想すらできない。

「呪い」はペンギンの形をしている

 今回の編集は監督自身が「とにかく兄弟2人が妹を助けようとする話」と言及している通り、複数のキャラクターの欲望が折り重なる群像劇だったTVシリーズよりも、高倉家に焦点を絞った作りになっていて見通しが良くなったように感じた。と同時に、TVシリーズが内包していた、荻野目桃果と渡瀬眞悧による世界を盤上としたゲーム(生存戦略)という側面を強調した効果もあって、後半に用意された“転換”がショッキングでありつつ「待ってました」とワクワクが抑えられなかった。

ーー「今の若い人」に新しく届けたいと。

幾原:10年前はエッジが強くて、「ちょっと食べづらいな」と感じた人はいたと思っています。そんな当時は「エッジ」だった部分や世界観が、今では現実に接近しているように感じています。

生きづらさは当時からあったと思うんだけど、それぞれがよりどころにしている、学校だったり、会社だったり、家族のコミュニティの強度が弱くなっている。周辺のコミュニティの強度が弱くなっているから、なおさら家族というコミュニティを守ろうとする……というのは、今の若い人にとってより切実なんじゃないかな。

ーー社会の中で弱い場所に立っているから、家族というつながりを大事にしている……劇中での高倉兄弟妹ですね。

幾原:僕らの若者時代って、そんなに家族の重要度は高くなかったと思います。暑苦しいし鬱陶しいし早く家を出たいなと思っていた。高度成長期で世間がどんどん上り調子だったのもあって、自分たちの生活がある日突然壊れるという不安はなく、当然ずっと続くという感覚があった。一概には言えないけど、今の若い人は自分のコミュニティがいつ壊れるかわからないという不安を持っていて、だからこそ感度が高い気がするんですよ。

例えば一人暮らしとシェアハウスで、あえてシェアハウスを選んだりするじゃないですか。僕らの時代だと一人暮らしでいいじゃんと感じるけど、シェアハウスを求める気持ちの中には、コミュニティを求めているところがあるんだよね。会社というコミュニティだけじゃなくて、家に帰ったら誰かがいる。そういうのがいいんだろうなと。

ーーありがとうございました。最後に、今回初めて『ピングドラム』の世界に出会う方にメッセージをお願いします。

幾原:『ピングドラム』は、ある事情を抱えた子どもたちが擬似家族をつくるお話。今いろいろなコミュニティの強度が失われている中で、若い人にもすっと入ってくる話ではないかなと思います。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』幾原邦彦監督インタビュー|
今の若者にこそ『輪るピングドラム』を見てほしい【連載第1回】

 家族を守りたい、高倉家を維持したいという強い動機を持つ冠葉と晶馬。しかし、彼らにとって家族という集団は暖かいものであると同時に「犯罪者の子ども」という属性に縛り付けられてしまう。彼らのみならず、『ピングドラム』に登場するキャラクターは大なり小なり家族関係に問題を抱えている者がほとんどで、彼ら/彼女らが愛を乞いながらも与えられなかった結果がどうなったか、はご存じの通り。子どもを愛するのも親なら、子どもを透明にしてしまうのも親なのである。

 そのことを誰よりも理解している渡瀬眞悧は、家族という集団が「呪い」であると語り、桃果から司書の役割を奪う形でゲームに介入する。そして、家族を守るために罪を重ねる冠葉を追及し、高倉家が高倉家であり続ける運命を破壊しようと物語そのものを乗っ取る。まさに「シビれるだろう?」という言葉がよく似合う幕引きだった。

 前述の文章と矛盾するようだが、家族という一集団の歪みも描いてきたTVシリーズが土台にあるからこそ、今回の劇場版がただ無邪気に「家族っていいよね」に着地するとは、どうしても思えない。冠葉と晶馬の願いを汲み取り、三人の高倉家を再生しようとする桃果と、家族という呪いから解放してあげようとする眞悧。この二者の対立が鮮やかに、「ノルニル」を介して切り替わるエンドロールの切れ味は、後編の油断ならなさを観客に抱かせる。

 本作は「愛」を描く物語である。だが、全ての家族が健全な関係とは限らない。愛されなかった子どもたち、選ばれず透明になってしまった者の末路は、明るいものではなかった。そんな呪い渦巻く家族というものに対し、「おうち時間」なる国策で帰属を要請された私たちは、その恩恵を良しとする者と息苦しいと忌避する者に分かれている。家族というコミュニティの在り方をどう再定義するのか、2022年に『ピングドラム』を再演する一番の意義はそこにあるのでは、と睨んでいる。

僕は君を愛してる

 散々ここまで予想と願望を語ってきたのだけれど、やはり最終的な評価は7月の後編まで持ち越しである。今乗り合わせた列車がどこへ向かい、どんな駅に停車するのか。それすら見えない、穏やかじゃない心中は、『ピングドラム』に翻弄されている実感で一杯だ。それこそ、10年前のTVシリーズを齧りつくように観ていた当時の視聴者の気持ちを追体験するかのように。

 愛を与えること、受け取ること。不寛容と余裕の無さが浮き彫りになるかのように、少しずつこの国の治安も悪化しているように感じるニュースも増えてきた。そして海の外は、独裁と虐殺がまさにリアルタイムで起こっている。10年前からちっとも良くなりはしない世界で、私たちは愛が地球を救う物語に飢えているのかもしれない。その嗅覚がクラウドファンディング驚異の達成率1051%を成し遂げたのだとしたら、私たちの閉塞感はいよいよ極まっているのかもしれない。

 『輪るピングドラム』のRE:cycleが希望となるか絶望となるか。全てが結実する終着駅で、高倉家が高倉家でいられるのかどうか、何があっても見届けなければ死にきれない。


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