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「推し」「尊い」を公式が言わないでほしい、というワガママ。

 少しばかり、面倒くさいお話をします。個人の感覚に寄るものなので、合わないと思ったらブラウザバックしてくださいね。

 『タイタニック:ジェームズ・キャメロン25周年3Dリマスター』が大ヒットし、都内では平日でも満席が相次いだらしい。不朽の名作の“不朽”っぷりに驚くと共に、劇場に掲げられたポスターには「バレンタインは タイタニックで、泣きませんか」のキャッチコピーが。この文言にヘンなしこりを感じつつ、それでもこの「タイ泣き」が、私のような捻くれた映画ファンの想像以上に効果的だった、ということなのかもしれない。

 最近で言うと、映画ファンに忌み嫌われたコピーとして「ドラ泣き」があったり、これは好意的に受け入れられた(あくまで観測範囲の話)「アバ体験」だったりと、ハッシュタグと紐づけられるであろう耳に残りやすいキャッチコピーが世間に溢れている。それは映画のみならず、全てのPRにはこういう文言があって、twitterやインスタグラムには商品の写真やポスターに「#〇〇」が2~3個くっついた文言が流れてくる。それがSNS時代のPRであり、愉快なものにはつい乗っかってしまう。

 では、先程「しこり」を感じたものと、感じなかったものとの分水嶺がどこにあるのか。端的に言ってしまえば、「公式から感情を誘導されすぎると、引いてしまう」ということなのだろう。あぁ、どうしてもこれは論理的な説明ができない。

 以前、金曜ロードショーで『天空の城ラピュタ』が放送された際、恒例となっている「“バルス”ツイート」を公式側が扇動すると、その放送回の日は該当のツイートがあまり盛り上がりを見せず、twitterのサーバーは無事だった、なんて話があった。アニメの展開に合わせてみんなで決め台詞を呟くなんて概念は、そもそも視聴者側で作り上げた文化であり、それを公式から「ハイどうぞ!」と言われると、楽しかったはずの祭りが「行事」になってしまう。

 ネットで発生したノリを公式が持ち出すと、急に冷めてしまう。ファンメイドな文化や風習を取り込むことは「無遠慮」であり、私たちは「取られた」と感じてしまうのかもしれない。この辺りは公式とファンとが一線を引いて、絶妙に共存を成し遂げている文化圏もあるけれど、そこを踏み外すと受け手は離れていってしまう。よく政治家を批判するワードで「庶民感覚」という言葉を目にするけれど、作品や商品を届ける側にとっては「受け手感覚」が大事、ということなのかもしれない。

 ただ難しいのは、この「受け手感覚」というものが感覚である以上、どうしても個人の価値観や倫理観に左右されるものであり、全員を満足させることは不可能だ。ゆえに「最適解」を見出すことを常に求められ、しかしファン心理を逆なでしてしまえばどうしても反感を買うし、買ってしまった人数が多ければ「炎上」になる。難しい時代なのだ。私個人も商品やサービスを顧客に打ち出す立場であるからこそ、その苦悩は大なり小なりわかる。どんなに工夫をこらし検討を重ねても、取りこぼしてしまう層はいるのだ。

 ……という実に長ったらしく、そしてグダグダと語ってきたが、ここからが私個人の「受け手感覚」の話。マーケティングのご担当者様にはとても理不尽であるということは理解しつつ、どうしてもこの気持ち悪さを吐き出してしまいたい。

 近頃映画館で目にすることの増えたこのCM、映画館に行くモチベーションとして「映画館シアワセ5か条」を挙げているのだが、その一つが「大好きな”推し”に大きな画面で会える」となっている。これを聴くたび、なぜだか自分の中でせり上がってくるものがある。なんだろう、この、「推し」という言葉が公式に見つかってしまった、という感覚は

 「推し」とは元来アイドルファン界隈から生まれた概念であり、SNSを通じて拡散された結果、今やアイドルのみならず「推したいと思った人やもの」を指す広い視野を持つ言葉に成長した。私であれば推しインド俳優や、推しゲーム会社がある。〇〇推しであることを表明するのは近い趣味嗜好のアカウントを探す傾向のあるtwitter界隈における名刺であり、私がどういう人間かを表すパラメーターにすら転用できる。

 ここで気になるのが、推しは当然「推す側」の、すなわち受け手であるこちら側のワード、という感覚が(あくまで私の中で)強いのだ。ファンダムの中で醸成された、ファンダムからの一方通行としての概念。それを“お上”の口から発されてしまうと、なぜだか嫌な汗をかいてしまう。

 これと近い感覚を抱いてしまうのが「尊い」というワード。これもオタク界隈における「好き」だとか「雅である」の言い換えの一つだと認識しているのだけれど、公式から「これは尊い関係ですよ!」と推されてしまうと、かなり後ずさりしてしまう。

 そのきっかけはわりとハッキリ覚えていて、『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』第1話において若きエーデルローズ勢の裸の付き合い(浴場です)を見た年長キャラである山田リョウさんが「尊いなぁ」と呟くのだけれど、このアニメにおける唯一の地雷(これもオタクワードだ)がここなのだ。尊いかどうかを感じるのはこちらであって!!先に言うのをやめてくれないか!!!!!!

 ここまで語ってきた反応はなぜ起こるのか。どれだけ頭をこねくり回しても「肌に合わなかった」という答えしか導き出せない。推しに会いに映画館に来て!とキャンペーン側が訴求するのも、若者たちの交流を尊いと思った山田リョウさんの素直な気持ちも、何も間違ってはいない。それを「公式」という言葉で一括りにして、勝手に一線を引き、ここから先に踏み入ってくるんじゃない!と叫んでいる私の方が狂人なのだ。わかっている。こちらにもそれくらいの認識がある。それでも送り手が尊いを強く推してくると、「屋上へ行こうぜ……」となってしまう(そして負けるのはいつもぼくだ)、面倒な生き物なのだ。

 公式とファンの境目は様々だ。twitter公式アカウント一つとっても、関係者だけをフォローする運用は当たり前として、加えてファン界隈をもフォローするタイプのアカウントもいるし、ときにはこちらの感想ツイートをRTしてくるタイプのアカウントもある。これは私の中では「OK」で、公式からバレたくないものは作品名を明言しない、あるいはふせったーを使って好き勝手呟かせてもらっている。もちろん公式のエゴサ能力とで伊達ではないはずで、バレているだろうな、という意識はありつつ、それをお互い明言しない。暗黙の了解がいつの間にか引かれているという安心の下、絶賛も苦言も吐かせてもらっている。

 互いに書面も覚書も交わしたわけでもない、そんな薄氷のごとき信頼の下で、送り手と受け手が見つめ合って、たまに交流する。そんなオタクライフを送る中で、時折「ピリッ」と感じる瞬間がある。その要因はたいてい私自身にあって、公式というものに対する身勝手な理想像を崩されたことに対する、面倒な解釈違い(誤用)なのだろう。ゆえに、この文章において「正しさ」は1ミリとも含まれていない。公式が「推し」「尊い」を打ち出しても良いし、受け付けられなかったら離れればいい。ただそれだけのことだ。

 とはいえオタクという生き物は、作品なり偶像なり、一度愛着を抱いてしまったものとはそう簡単にお別れできない習性を持っている。そのため、この面倒くさい自意識と向き合いながら、公式を追っていくしかない。こういう拗らせたオタクの繊細さに苛まれている時が、一番大変だったりするのだ。

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