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10年ぶりの『仮面ライダー鎧武』Reステージ(1):子どもと責任

 『仮面ライダー鎧武』を観ている。今年が10周年の記念すべき年であり、とあるリクエストを頂戴したことも相まって、金曜の夜、焼酎片手にまずは1話を観る。続いて、2話、3話。気づけば土曜の夜に14話までを修め、2日間で1クール+αも観てしまった。面白い。面白すぎないか?鎧武って。

 もしかすると、放送当時よりも、ハマっているかもしれない。もちろん、後の展開を知っているし、制作時の裏話やキャスト・スタッフインタビューも多少目を通した経験があるからこそ、読み取りやすくなっているだけのことだとは思う。それにしても、何だろうこの面白さは。キャラクターたちが主義主張を唱え、争い、やがては想像しなかった大きさにまで話のスケールと背負うべき責任が広がっていく。

 物語が稼働した瞬間から薄っすら漂う、「もう戻れない」という感覚。『魔法少女まどか☆マギカ』にも感じた殺伐さや冷酷さが、平成ライダーというフォーマットにお色直しして描かれる、現代の戦国絵巻。思いの外見入ってしまったので、その理由を語る感じで感想を書いていきたい。

 終盤の凄まじい展開やその後の劇場版〜小説版までの流れを思えば、1話は実に牧歌的だ。若者たちがステージを巡って争い、なんだか基準のよくわからないランキングによってダンスグループの立ち位置が決まる。放送当時も「一年間これやるの?」という一抹の不安を覚えたが、今となってはダンスに打ち込んでいられた時間こそが懐かしい。

 そうしたやり取りからすでに「降りている」葛葉紘汰は、開始時点ではフリーター。チーム鎧武のOBとして下の世代から慕われつつも、好きなことをやっていられたモラトリアムは終わって、姉と二人暮らしの生活を維持するためにお金を稼いでいる。意外と忘れがちなのが、葛葉家は両親を亡くしており、紘汰にも早く大人になって自立し、お姉さんを楽させたい、などといった考えがあるのだろう。

 早く大人になりたい。そういう想いを「変身」と捉え、数奇な運命からアーマードライダーに変身する力を得てしまうわけだけれど、増長しきった紘汰はバイトを辞めてしまい、インベスゲームの賞金頼りになったところを、姉に窘められる。紘汰はこの頃はまだ大人としての責務や意識に疎い、「子ども」として描かれる。まぁ20歳なんてそういうものなのだけれど、そんな子どもの紘汰が色んなものを背負い、数段飛ばしで成長せざるを得ない状況となり、最終的には人間を辞めてしまうところまで追い詰められると思うと、物凄く切なくなってしまう。

 改めて、『鎧武』は佐野岳と出会えて良かったな、と思う。決して器用でもないし、考えるよりも行動が先んじてしまうところもあれど、正義感と責任感に溢れる好青年。たくさんの人に慕われるカリスマ性だったり、若さから生じるほっとけなさだったりと、佐野くんではなかったら全然違う受け取り方をされていたに違いない。高岩さんをも唸らせたと噂の身体能力も含め、葛葉紘汰と佐野岳はイコールなのだ。まぁこれはどのライダーに対しても言ってますが……。

フリーター→神(宇宙の神様)

 キャラクターと役者の相性を語るなら、呉島光実と高杉真宙は欠かせない。序盤ではまだ拙い演技も初々しいのに、一年をかけて急成長し、後半ではずっと目の死んだ影のある美少年を体現し続けた真宙くん。『鎧武』の裏主人公として大きな役目を果たすことになる重要ポジションでありながら、序盤はまだその片鱗は薄い。ただ、1話冒頭のイメージカットにて紘汰と戒斗の闘いを見守る図、というのが今思えば象徴的だ。

 呉島光実は鬱屈した毎日を送り、チーム鎧武にいる時間だけは笑顔でいることができる。家や兄から押し付けられたレールに従い、反骨する勇気も持てず、兄の貴虎を騙しながら送るモラトリアム。彼もまたアーマードライダーに変身する資格を得るわけだが、その根底には紘汰への憧れに加えて、チーム鎧武の存続の危機や悩める舞を見てドライバーを求めるあたり、今いる居場所への愛着や舞への想いはかなり強い。だが、チームを守れる力が欲しいという想いは誠実でも、そのための手段がことごとくダーティで間違っている様は見ていて哀しく、1クール目にしてすでに彼の転落劇の序曲は幕を開けているのだ。

 頭も良く、大人を欺き出し抜くだけの能力を持ってしまったが故に、やがては搾取され蹴落とされ見捨てられていく。大切な居場所と愛する人を守りたいと一生懸命だった彼は、いつしか自分でそれを壊してしまう。そんな悲劇的な運命を辿る呉島光実は、果実の瑞々しさとは正反対の味を『鎧武』に加える。結末を知っているからこそ楽しめる、2週目ならではの醍醐味を最も感じるのは、光実を見ている時だ。一時も目が離せない。

 初瀬ちゃんの死をチャプターにするのも忍びないが、誰もが「第1部完」と思うであろう14話までの1クール目は、武部Pが強く打ち出していた構想の一つである「多人数ライダー」が、本当に怒涛のスケジュールでやってくる。3話でバロン、4話で龍玄の初陣でラストにグリドン&黒影が初登場し、6話にブラーボが参戦。鎧武や龍玄も新たなアームズを手に入れる中、バロンのマンゴーアームズは8話。これが遅くね?と感じるくらいには、ハイペースで新しいライダーやアームズが登場する。

 鎧武は「サガラ=ヘルヘイムの介入」という形で正当化される主人公補正を今後振るうことになるのだけれど、グリドン&黒影は強いロックシードが手に入れられず、闇討ちでなければバロンには敵わない。そんなパワーバランスの中で斬月=呉島貴虎やブラーボ=凰蓮・ピエール・アルフォンゾといった「大人」たちが強者として扱われているのも、テーマとして一貫性を感じる。とくに黒星一つなく、圧倒的な強さで紘汰を戦意喪失に追い込んだ残月が、全く格落ちすることないまま斬月・真にグレードアップするという展開は、2クール目以降の苛烈さを予感させるちょうどよい絶望感。

 最初に触りだけ言及した通り、『鎧武』の物語の面白さとは「気づいた時にはもう後戻りできないくらい問題が肥大化している」ことにあると思っていて、1クール目で描かれるのは子どもたちが意図せずして背負ってしまった罪、すなわち「遊びでやっていたことで死者が出たら?」という残酷なもの。

 ダンスチームの縄張り争いとしてロックシードを用いたインベスゲームを流行らせ、その膠着したパワーバランスを崩すサプライズとして戦極ドライバーとアーマードライダーを投入。ドライバーを手にした若者たちは変身してその全能感を振るうが、彼らは「モルモット」と大人たちに嘲笑われ、彼らなりに真剣だったダンスやチームバトルも全て大人たちの掌の上だった、という非情さ。そうした大人たちの“汚さ”を目の当たりにした紘汰は憤るが、真実を白日の下に晒そうとする以前に、インベスが街の人々を襲い始めたことで、その責任を追求され、何も言い返せない。

 “ルールの中で”かつ“安全”だったインベスゲーム、ひいてはアーマードライダーとして闘うことが自分の死、そして周囲の人間を危険に晒すものだったと知った頃にはもう、事態の収拾なんてつかないし、子どもである彼らに責任など取れるはずもない。そこに追い打ちをかけるように、「初瀬のインベス化」「行方不明の裕也がインベス化しており、鎧武によって倒されている」が間髪入れずにやってくるわけで。もう、人の心がなさすぎる。

 仲間思いで情に厚い、そんな紘汰が初瀬を斬るなんてできるわけがなく、ずぶ濡れで慟哭するしかない。だが、彼の手はすでに血で汚れてしまっている。紘汰にとっても大切な人であるはずのチーム鎧武のリーダー裕也を、自ら手にかけてしまっていたのだ。

 そしてその事実は、神の視点で見守る視聴者と、子どもたちの中では光実だけが現時点で知ることになる。光実にとっては紘汰が持ち前の正義感ゆえに自分の提案(これ以上変身しないというもの)に従わず、微妙に緊張感ある関係性になったところに、この情報を知ってしまう。4話や5話で示された、光実から紘汰への憧れに水を差す重大な出来事なのはもちろん、それを自身の手札として控え持つことができるのが、光実という男。紘汰がその事実を知ったら、一体どうなってしまうのか。弓の弦のように張り詰めた緊張感が、怒涛の1クール目を締めくくる。

 劇中の子どもたちが大人たちにそうされたように、我々視聴者も作り手の思惑に沿って慄き、姿勢を正したであろう14話。一体なにを見せられているのか?と思わずにはいられないインベスゲームも、遊びの延長線上でしかなかったライダーバトルも、全てはここのインパクトを最大化するための仕掛けだったのだろう。初瀬ちゃんは辞世の句を述べる間も与えられずに(死体や骨も残らないほどに)呆気なく殺され、貴虎を除く大人たちは哀悼の意を示すこと無く、子どもたちに深い傷を残し、物語は次のステージへ。より厳しい「子どもVS大人」の構図が前面化する2クール目以降では、人類の存続に関わるより大きくて背負い難い問題が降り掛かってくる。

「あのベルトは俺しか使えない。
 俺にしかできないことをやり遂げるための力。
 俺はそいつを引き受ける。
 そいつがきっと、大人がよく言う責任ってやつだろ」

第5話『復活!友情のイチゴアームズ!』

 ユグドラシル=大人たちはすでに動き出しており、人類存続をかけた闘いは水面下で進んでいる。そんな状況下で、紘汰たちは“子どもであること”を剥ぎ取られたり、あるいは自ら捨て去る覚悟をして、大きな闘いに臨んでいく。先の展開を知っても燃えるし、同時に切ない。ガキの遊びが遊びでなくなった時から、紘汰たちは周りから多くのものを背負わされてきた。それをなんとかするのが“大人”だと言うけれど、引き受けたものがあまりにも大きすぎて、パンクしてしまうだろう。

 知らず知らずの内に人類の存続がその両肩に乗せられていく子どもたちと、そんな彼らを嗤い、やがては脱落していく大人たち。その苛烈さを増してく物語は、10年経っても賞味期限は切れておらず、今なおスリリングで面白い。見逃していた外伝も含め、10年ぶりの再鑑賞は思いの外、本腰を入れて取り組むことになりそうだ。

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