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『パシフィック・リム:アップライジング』それでも俺はデルトロに撮ってほしかったと嘆いてしまう。

 これほどまでに「ありがとう」の言葉が並ぶ映画が過去あっただろうか。2013年に公開された映画『パシフィック・リム』は、ゴジラやガメラといった国産怪獣映画の供給も止まり、『ウルトラマンギンガ』については当時の円谷プロの懐事情が垣間見える、そんな時代の飢餓を一気に満たし、その一年はずっとこの作品に熱狂し続けた。サウンドトラックを毎日聴き、公開が終わればソフトの発売日を指折り待ち続けた。

 日本の特撮・怪獣・ロボットファンにとっては作品そのものが「事件」だった。こんなスゲェやつが海を渡ってきて、しかもそれが低俗なパロディなんかではなく「本気で」「真剣に」ジャンルを愛し、向き合った者が創り出している。『パシフィック・リム』は、ギレルモ・デル・トロ監督をはじめとするスタッフ・キャストが、日本のポップカルチャーへの理解と愛情を極限まで注ぎ込んだ結果生まれた、規格外の一作だ。これを日本のオタクである自分が観て狂わないわけがないのだ。公開初日、IMAXシアターのど真ん中で、あのメインテーマと共に勇壮に出撃するジプシーの姿を観て、涙が止まらなかった。格納庫シークエンスで言えば未来永劫これを超えることはないだろうと思っていた『ゴジラvsメカゴジラ』のオープニングシークエンスに匹敵する、重厚で燃えて心がアツく滾る最高潮の冒頭シーン。そのテンションそのままにフェティシズム溢れるロボット描写やKAIJUの都市破壊、アニメ調のキャラクター造形を組み合わせながら、「ここぞ!」というキメカットを連発させ我々の心をくすぐり続ける。作り手のこだわりと愛がひしひしと伝わってくる極上の132分間に、どうしようもなく魅了されたのだ。

 一方で、その続編『アップライジング』に対しては、期待と不安を募らせる日々が続いていた。その一年を捧げたくらいにハマった作品の続きだから、駄作であってほしくない。少なくとも「not for me」であってほしくないのだ。だが、監督も作曲家も変わり、予告編ではスリムに改良されたイエーガーが東京らしき都市を軽快に飛び回っている。楽しそうだと思う反面、何かネジが上手くハマりきらないようなもどかしさ気持ち悪さ。何が何でも、いち早く実際の作品を観て確かめたい。2013年のあの熱をもう一度取り戻したい。その願いが叶ったかと言えば、残念ながら「否」であった。

 本作を観て改めて感じたのは、やはり自分は前作の「フェティシズム」に惚れ込んでいたのだな、ということだった。巨大怪獣を“Monster”ではなく“Kaiju”と呼ばせ、作中に登場するKaijuはすべて「中に人が入って動かせる」こと、すなわち着ぐるみ特撮で再現可能であることを重点にデザインさせたという逸話が語る怪獣愛。あるいは、パイロットスーツの各部品やイェーガーの首と胴体が“組み合う”過程をしっかり描写し、コクピットの設備にはいちいちキズや塗装の剥げが見て取れる。そして、演者が実際に重たそうに、己の身体を酷使する様子がロボットの動きに直結することから生まれる「重厚感」、パンチの一発一発が本当に重たく感じられるようになっているのは、コクピット周りをCGで済ませるのではなく、実際にセットを造っての撮影を行ったことにより生まれたものだ。こうした、ストーリーの進行には一切関係のない「なくても映画は成立するもの」に異常にこだわりぬいた作り手の愛に、心を掴まれていたのだ。

 スティーヴン・S・デナイト監督をはじめ、今作を任された制作陣は決して「わかっていない」人だとは思わない。実際彼も日本のカルチャーに詳しく、『ウルトラマン』や『ジャイアントロボ』などの例を挙げ、日本のお家芸にもリスペクトを払ってくれているのは、作品を観れば自ずと伝わってくる。前作から10年が経過したという時代設定を考えれば、イエーガーの軽量化に伴う可動範囲の拡大にも納得がいくし、イェーガー対イェーガー、Kaijuの「合体」といった、前作にはなかったアイデアを数多く盛り込んだ姿勢も素晴らしい。前作の焼き回しではなく、ロボット対怪獣の実写映画をこれまたアップデートしようとする気概は、否定しようとは思わない。思うはずがない。繰り返すが、『パシフィック・リム』に贈る言葉はいつだって「ありがとう」だ。

 それでも本作に心の底からドリフトできなかったのは、受け取り手である私自身が前作を神格化しすぎたあまり、そのアップデートを飲み込めなかったからだ。巨大ロボットを生身の演者が重たそうに、苦しそうに動かすことで重量感を演出していた前作と、パイロットの動きをそのままトレースして俊敏な動きを魅せる今作を見比べて、私が強く惹かれたのは泥臭くもヒロイックな2013年の『パシフィック・リム』だった。デルトロ監督の美学、「作家性」とも言うべきジャンルへの偏愛がもたらした奇跡の一作に後ろ髪を引かれ続け、次世代の作家による味付けを拒絶する。だからこのテキストは、映画の感想やレビューなんかじゃない。一番なりたくないと願っていたはずの「老害」と化している自分が、駄々をこねているに過ぎないのだ。

 前作神格化オタクとしては、キャラクター描写についてもショッキングな出来事が多かった。ニュートンが異次元生命体プリカーサーに乗っ取られる展開は前作とのリンクを強く感じさせるし、操られた後もKAIJUラブを隠し切れない一面がむしろ愛らしい。

 それよりもだ。本作中盤には前作主人公である森マコが死ぬ、という展開が待ち受けていた。チャーリー・ハナムが出演していない本作ではローリーとマコのドリフトは見られないものだと諦めていた。でも、マコを殺す必要があったのか。「次世代機が敵わない危機的状況を旧世代機が助っ人に来る」という超絶ロボットアニメ激アツ展開の未来が今後一切封じられただけでなく、彼女を守るために散っていたペントコスト司令官やこのことを知らされたローリーの気持ちを想うと、やるせなくて本作を再見しようとする気すら湧かない。

 代わりに地球の危機に立ち向かうのはPPDC(環太平洋防衛軍)の若きパイロット訓練兵たちなのだが、この描き方も勿体ない。もう少し彼らの訓練の日々が、厳しい訓練の合間に友情を育む過程が見られたら、似たようなヘルメットを被せられても個々人が判別できるほどに観客の感情移入を誘うキャラクターたちであれば、その散り様を惜しむこともできたはずだ。

 そろそろまとめよう。デル・トロ監督とデナイト監督。同じく日本のアニメ・特撮を愛し、ジャンルに対する理解と志を胸に抱く二人の作り手。しかしながら、その嗜好はいつしか分離し、全く違う味付けでそれぞれのゴールへと向かい進んでいく。作家性=フェティシズムの相違が生み出した『パシフィック・リム』の変化、あるいはアップデートに、私はついてこられなかった。いつまでも2013年の、IMAXシアターで号泣したあの日から、一歩も前へ進めなかった。そのことへの情けなさを、続編である『アップライジング』に投影して嘆いているに過ぎない。表題である「それでも俺はデルトロに撮ってほしかった」というのは、私個人の身勝手なお気持ち表明でしかない。作品の絶対的評価ではなく、『アップライジング』にドリフトできなかった私が今口にできる、精一杯の恨み節なのだ。

 クライマックスバトルを日中の東京で展開させたのは、英断だと思っている。このように、本作には前作には無かったアイデアがたくさん盛り込まれている。そしてそれは、おそらく正しい行いである。いつまでも前作の陰を追っても仕方がないのだ。『パシフィック・リム』は新しい血を取り込んで、「怪獣とロボットが戦う実写映画」の表現を広げようとしている。その歩みを阻害するような厄介者にはならないよう、私は自室の片隅で前作の余韻に浸っているしかないのだ。


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