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シャニマスのアニメ第2章を観たぜ。

 ドーモ、伝書鳩Pだ。さいきんハチャメチャに寒いが、みんな調子はどうだ?風邪などでぐったりしてないか?

 季節の移り変わりは早いもので、秋服をほとんど着る間もないまま冬服を身に纏うようになり、シャニアニは第2章が公開された。その間、「シャニソン」が無事にリリースされたり、鈴木羽那がとんでもない女だったり、鈴木羽那のおむすび恐竜がタイムライン上で増えまくっていたりしたが、このタイミングで初期4ユニットだった頃の空気を摂取できるのは、なんだかんだ嬉しいものだ。今回も当然ネタバレを含むので、今すぐ劇場に走るか、地上波放送を待つなりして、読んでほしい。

 まずおれがすべきことは、「謝罪」だ。先日の第1章を観て、enza版シャイニーカラーズの奥深い物語と人物描写を24分尺でやるのは無理だったか……と腕組わかり顔フェイスを決め込み、あまつさえ「この作りでは新規層に優しくないのでは?ゲームに誘導できる導線がちゃんとあるのか?」と立場をわきまえない発言をしてしまっていた。

 猛省、世が世なら腹切りで詫びる必要があるだろう。シャニアニは、「シャイニーカラーズをアニメ化する」ということに、とても真摯に取り組もうとしている。それはただ原作の物語をなぞるとか楽曲を使用するなどの表面的な手段ではなく、シャニマスという作品が作り上げてきた空気感やコミュニケーションの質感、アイドル一人ひとりを説明ではなく“アニメーションで語る”ということを、ただただ実直にやる、ということだ。第2章を観て思うのは、前回を観る自分の目がいかに曇っていたか、芯を捉えきれなかったということの、甘さであった。

 第1章で公開された4話までを経て、続く5話ではイルミネーションスターズの三人が主軸に置かれる。283プロにおいて現状もっとも新しいユニットである三人は、デビューライブに向けて日々レッスンに励んでいる。だが、真乃は自分の実力が二人に追いついていないのではと焦り、灯織は真乃に対する接し方を掴めずにいる。

 enza版初期の名作シナリオ『Light up the illumination』を思い出さずにはいられない、イルミネ三人の物語。ゲームでは灯織が体調を崩してしまい、めぐるとの会話の中で“三人で”やり直そうとする姿が描かれるけれど、アニメでは「真乃とめぐるが自主的にレッスンを重ねて足りないものを補おうとしているところを灯織が見て、本心を告げた上で“三人”になる」という流れに改変されている。

 原作の再現にならなかったことを惜しむ気持ちもあるが、おれはアニメ版が採択したこの描写がとにかく好きだ。真乃がアイドルになることに真剣であることを灯織が知り、灯織が自分の中のわだかまりをちゃんと言葉にして伝えた上で、改めて手を取り合う。お互いの想いを伝えんと言葉を重ね、誠実であろうとする灯織の姿は『くもりガラスの銀曜日』のテーマ性にも通じるし、アニメ版では目=視線の動きが灯織の心情を観る者に想像する余地を与えてくれるため、enza版からより豊かにアイドルたちが生きる表現を与えられていることに、胸を締め付けられる想いがした。

 それらを踏まえた上で聴く・観る「ヒカリのdestination」のライブシーンがどれほどの感動をもたらしたか、なんてものは各々の心が知っているはずだ。ここでそれを言葉にするなんて野暮なことはしないが、あえて一言残しておくのなら「三人の輝きがキラキラと眩しくて、そのことが何よりも嬉しかった。その上さらに彼女たち自身が今この瞬間を楽しんでいることがわかる表情の微細な演技が愛おしくて、ずっとこんな時間が続けばいいのにと本気で思った」である。

 中盤の主題になると予想していたイルミネの結成物語を冒頭5話で済ませる驚きの進行の果てに始まったのは、ご存知W.I.N.G.への挑戦だった。ユニットで挑むアイドルの登竜門的フェスと説明はされていたが、ゲームシステム上どうしてもアイドル個人が参加するように見えてしまっていたW.I.N.G.だが、今回アニメ版によって改めてユニットで出場するものです!と大々的にやってくれたことに、不思議とフレッシュさを感じてしまう。

 283プロの全ユニットがエントリーし、見事全員の出場が決定。イルミネはデビューしたての新人アイドルで、アンティーカもテレビ出演を果たしたばかりの、みんな文字通りのひよっ子たち。そんな彼女たちが挑む、過去最大規模のステージ。ところがこのアニメは、派手な練習風景や劇的なトラブルによる物語の起伏を選ばず、彼女たちの静かながらも着実に一歩ずつ成長していく姿を、「カメラ」を通して描いていくことに挑んだ。

 2022年に発売された『アイドルマスター シャイニーカラーズ シナリオブック』におけるシナリオライターインタビューでは、彼女たちの物語を表現する方法を「カメラで撮る」と表現していた。シャニマス制作陣の中では、彼女たちアイドルは“そこにいて”、その一挙手一投足を文字やSpineに置き換えたものを“シナリオ”と呼称しているに過ぎず、アイドルたちの実在性をクリエイター自身が本気で信じている、という姿勢が貫かれている。これはアイドルたちの人生は絶えず続いていて、我々はその一部分を切り取ったものをenzaを通じて読んでいる、という思想をも意味していて、そのこだわりがシャニマスを成すものでもあったわけだ。

――なるほど。シナリオを描くときは、この子はこういう活躍をするだろうなということは自然と浮かんでくるのでしょうか?

橋元(優歩) 
自然と浮かんでくるというよりは、基本的にはアイドルたちの日々はすでに存在していて、そこをカメラで撮影しているという感覚でしょうか。その中で、映画監督のように彼女たちの魅力を最大限引き出せるようアプローチを模索するというか。彼女たちの一瞬一瞬の繊細な表情をどうやったら映し出してあげることができるのか、日々試行錯誤しています。

――シナリオを描くというのではなく、映画を撮影するような感覚で制作されていると。そんな『シャニマス』の物語はプロデューサーさんたちから好評ですが、改めて、魅力はどのようなところにあると考えていますか?

高山 いま、橋元さんがおっしゃっていましたが、シナリオチームの皆さんは、シナリオを「描いている」や「考えている」ということをあまり口にされません。それは、アイドルたちによってくり広げられている物語を余計な編集や味付けなどを加えずに、大真面目に映し取っていただいていることの表れかと思います。

 たとえば、シナリオ制作時、異なる価値観を持つアイドルどうしがいっしょになった際、その違いからうまく会話が進まないというようなことはよくあると思います。そうしたとき、物語を描き切るために彼女たちの価値観を捻じ曲げて都合のよいセリフを作ったほうがスムーズに描けますが、シナリオチームの皆さんはそうしません。真摯にアイドルに向き合っていただいているからこそ、実在性のある『シャニマス』らしいシナリオに繋がっているのかなと思います。

(中略)

――そうした実在性のあるシナリオを作り上げるにあたって、橋元さんがとくに大事にしていることはありますか?

橋元 たとえばドキュメンタリーなども似ていると思うのですが、撮られている対象はカメラがないところでもふつうに生きているわけですよね。本来はそこに実在性ということの根拠があるのだと思います。

 でも、カメラとして向かいあわせてもらう限りは、どこにレンズを向けるか、どんな時間に寄り添わせてもらうか、それをどう編集するかというところに撮る側の作為が入ってしまって、どうしても相手の像に少しズレができてしまう。その差異になるべく敏感でいたいという気持ちはあります。

『シャニマス』開発スタッフインタビューシナリオ編。アイドルたちの物語は“描く”というより、監督として“カメラで撮影する”感覚。実在性の高いシナリオを制作するためのこだわりに迫る

 それを踏まえてアニメ版では、彼女たちが自分やメンバーたちとの風景を自ら「カメラ」を通じて切り取り、その日常を「ドキュメンタリー」として視聴者に提供し、かつ自分たちを客観視するための資料としても活用する、という理屈を持ち込むことで、原作が持つ精神性を上手く物語に落とし込んでいる。なるほどその手があったか!と膝を打ってしまった。

 アルストロメリアはほわほわとした時間を過ごし、放クラはW.I.N.G.対策会議と称して自分たちのパフォーマンスの方向性を検討し、アンティーカは三峰宣伝隊長が「撮れ高」と意識した映像を撮る……と、各ユニットごとにW.I.N.G.優勝という同じ方向性を見据えながらも、その手段が異なるという差別化や雰囲気の違いを押し出しているところも「流石だ……!」となってしまう。こういうところにシャニマスの手付きを感じるんですよ。

 それぞれが自分たちの思う方法で高めあっていき、ついにW.I.N.G.本番……という見どころでさえも、シャニアニはある決断をする。それは、W.I.N.G.における彼女たちのパフォーマンスそのものを描かない(一部TVで放送されるシーンのみ)というものだ。

 惜しくも、283プロのアイドルはW.I.N.G.の頂きを掴めなかった。本作はその“結果”のみを暗示して、彼女たちがそれを踏まえどう想ったか、をより強く描写することを選んだのである。密着ドキュメンタリーの本放送を眺め、それぞれがW.I.N.G.での自分たちのパフォーマンスや結果を受けての心情を振り返る。W.I.N.G.での敗退を受け止めて毎日を送る姿と、悔しさに張り裂けそうになる心とを等価に描くその語り口は、個人的には『アイカツスターズ!』のDNAを感じずにはいられなかった。

 アイカツ!シリーズの中でも「敗者」のドラマを描く熾烈さを持つ『スターズ!』において、「たとえここで負けたとしても、人生はこれからも続く」という大きなテーマが(主に桜庭ローラさんを通じて)描かれており、その精神性を色濃く受け継いだのがこのシャニアニ7話なのではないだろうか。

 先程、シャニマスとは「アイドルたちの人生は絶えず続いていて、我々はその一部分を切り取ったものをenzaを通じて読んでいる」ものだと話したが、まさにその精神性である。W.I.N.G.という大きな舞台であってもそれは一つの大会であり、彼女たちのアイドル人生はこれからも続いていく。これはアニメであり、ゲームオーバーやリセットは存在しないのだ

 アイドルへの強い憧れを抱く恋鐘は、明るく振る舞えども自分の中で強い悔しさを抱きつつ、今はその手を取る仲間がいることを描く。アルストロメリアの三人は自分たちのパフォーマンスが完璧でなかったことに落ち込みながらも、観客に笑顔の花を咲かせたいという想いを未来へ繋ぐ。果穂は敗北への悔しさよりも「みんなとW.I.N.G.に向けて頑張った日々」が終わることへの寂しさを滲ませながら、これからもアイドルが続いていくことをみんなが支えてくれる。

 シャニマス(原作)がゲームである以上、W.I.N.G.とは「攻略するもの」であったし、ゲームシステムに慣れきってしまうと負ける方が難しくなってしまうほどに、それは初心者への壁であり続けた。対してシャニアニは、W.I.N.G.が283プロのヒナたちにはまだ乗り越えがたい壁であることを強調した上で、アイドルたちがその敗北から得たもの、浮かび上がる個性を描くことに挑んだ。勝敗の結果よりも個人の心情に寄り添うことでアイドルの「実在性」を高めるこの描き方をもって、本作は正しく『シャニマス』の精神性を受け継ぐ『シャニアニ』であると、おれは強く確信に至ったのである

 『シャニアニ』は、諸刃の剣である。『シャニマス』の精神性を色濃く受け継ぐあまり、こうして4話続けて観ることで鮮明になるテーマ性や挑戦的な手法も、週1放送の地上波版ではそれが受け取りづらく、派手な見せ場もないため興味の持続を促すのが難しいのでは、という懸念は1章を観た際よりも強くなってしまった。お節介であることも承知で、シャニマスを知らない人が最後まで付いてこられる強度があるのかどうか、心配で仕方がないのである。

 ただ、すでに試写も済んで3章(全12話)が完成している事実は覆らないので、おそらくシャニアニは“このまま”を貫き通すだろう。そしてその決断は、おれを含める多くのシャニマスPの心を穿つ大傑作を招くのではないかと、今から期待が滾っている。全ての答えは来年1月、景気のいい年明けとなるか絶望の始まりとなるかは、シャニアニにかかっている。

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