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真剣だから、面白い。『侍タイムスリッパー』

 時折、「あぁ、映画っていいなぁ」と思える作品に出会えること、あるじゃないですか。本作がそれです。これ以上は何も調べなくてもいいし、何ならこのnoteも読まなくていいです。行って、映画館に。いいから、絶対に。

 それでも何とか推薦文のようなものを書くとしたら、本作は「手ぶらで観に行って笑える、万人に開けたコメディ」であることを、まずは推したい。

 幕末時代の会津藩士が、雷に打たれたことで現代の時代劇撮影現場にタイムスリップし、何やかんやあって切られ役俳優として大成していく―。本作は、このあらすじから観客が予想されるギャップの笑いを、丁寧に丁寧に拾っていく。

 主人公の新左衛門は、理由もわからず現代日本にやって来て、侍も幕府も存在しない世界に飛ばされてしまう。当然、右も左もわからず困惑するわけだが、親切な寺の住職夫妻に拾われて衣食住を確保し、侍ならではの(?)真面目さ誠実さで俳優という職業に就き、お役目を果たしていくことになる。

 その道中、彼は車に驚き、洋酒に悪酔いし、どこにでも売っているようなショートケーキに涙を流して喜ぶのである。ベタ中のベタなれど、新左衛門を演じる山口馬木也氏のリアクションがキュートで、ついつい微笑ましく見守ってしまう。新左衛門がいたって真剣に現世の諸々に驚き感動するからこそ、こちらが感じるおかしみも特大のものになっていく。

 主人公の魅力もさることながら、周囲の人々が暖かく彼を迎え、支えてくれる優しさがあるからこそ、本作はどこかほんわかと安心して鑑賞することができる。若干のネタバレに抵触するのだが、新左衛門が過去の日本からやってきた人間であることを知る人物は、一人の例外を除いて終幕までいないのである。その状態でどうやって物語を回していくのか、については、ぜひ劇場でお確かめいただきたい。

 本物の侍が時代劇の撮影現場にいたら……?というおかしみも、本作はたっぷり堪能させてくれる。主演俳優と切られ役と町娘などのキャストが大勢集う中で、たった一人真剣を携えた男がいる。時代劇のヒーローに助太刀しようと刀を抜く所作や名乗りの、本物っぽさですら面白い。周囲のエキストラが焦りだし、監督がしびれを切らして新左衛門を怒鳴りつける。緊迫したシーンが一瞬で弛緩し、劇場でも大きな笑いが起こる。

 こういった一連のシーンは爆笑必死なのだが、笑えると同時に、実はスリリングな瞬間でもある。新左衛門が町娘を救おうと悪漢に斬りかかれば、吹き出すには血糊ではなく本当の血であり、目も当てられない惨劇になってしまう。彼が本物の侍である証としての「真剣」は、新左衛門が生きていた時代がTVドラマや映画の題材として扱われるような現代ではタブーな持ち物であり、映画の終盤にそのことがリフレインされ、大きな意味を持つようになる。

 裏を返せば、新左衛門はそういうことが日常茶飯事の時代の日本で生きていた、ということなのだ。倒幕の機運高まる時代から、現代日本へのタイムスリップ。序盤、彼は江戸幕府が今から100年以上も前に解体されてしまったことを知るのだが、そのことはあまり重く受け止めてはいなかった。むしろ、誰もがショートケーキのようなお菓子を口にできる平和な世に感激し、自分もその恩恵に身を委ねていた。だが、彼は歴史の暗部をまだ知らない。かの戊辰戦争において、故郷・会津の地がどのような仕打ちを受けたのかを知った時、新左衛門の意識は再び幕末に引き戻される。

※以下、本作の終盤にまつわる記述が含まれる。

 新左衛門が切られ役として大成して、周囲から認められていく様子を観てほっこりしたところに、本作は後半から新たな主題が提示されていく。大物俳優の風見恭一郎は、なんと新左衛門と同じ日に雷に打たれ、しかし新左衛門よりも前の時代に飛ばされていた長州藩士その人であった。

 お互いが侍も幕府もない時代に飛ばされ、しかし(模造)刀を握ることを許される仕事をして生き延びていたことを知るも、想いは複雑である。志を共にした同士に顔向けできないと落ち込む新左衛門と、カメラの前で殺陣を演じながら、かつて切り捨てた命の記憶に苛まれる風見。二人の心が真の意味で成仏するには、この現代日本で今一度真の侍になる必要があった。それゆえに、二人は真剣での死合を望む。

 真剣を使った映画の撮影など、言語道断である。いくら主演二人が責任を負うと宣誓したとはいえ、SNS全盛の時代に、スタッフ側の無責任を追求する声が起きないはずがない。しかしこの展開は、かつての時代劇の現場が有していた荒々しさやリアルの追求へのオマージュであり、リスペクトと受け取るべきだろう。

 主演二人の、鬼気迫る死合。それが作り物だという意識はいつの間にか消え去り、映画から音が消えると、私がいた劇場も沈黙に包まれた。呼吸も咳払いの音も一切なく、本当にあの瞬間、劇場にいた全員が息も忘れて眼の前の銀幕に釘付けになっていた。完全なる静寂と、決着がつくシーンで思わず誰かの口から漏れた「あっ」という声。これを、映画のマジックと言わずして、なんと呼ぶ。私たちは確かに、真の侍をこの目で目撃したのだ。

 おそらくは、1962年の『椿三十郎』の、あの伝説のラストシーンにおいても、今日の劇場のように空気が張り詰めていたのだろう。極限の緊張感と、命のやり取りを観ているのだ、という興奮。新左衛門と風見の、その双方に思い入れが醸成されているからこその、展開の読めなさ。こればっかりはもう、どんなに文字数を重ねても一回の鑑賞には敵わない。今年観た映画の中で最も手に汗握り、緊迫した瞬間だった。

 かくして、かつての日本映画、時代劇の魅力を令和の世に今一度知らしめた『侍タイムスリッパー』は、満面の笑みを浮かべて幕を閉じていく。現代日本でその生き方を見失うはずだった侍が、自分の人生を“斬り”開いていく様は、たとえ今は報われなくても何かに情熱を注ぐ全ての人の心を鼓舞し、もう一度奮い立たせてくれるだろう。聞けば、今作の監督を努めた安田淳一氏は、ご実家の米農家を継いでおられるとか。映画とお米、どちらも難産な代物である。安田監督の生き様が、このフィルムに至ったのだろう。

 陳腐な言葉だけれど、これほどまでに「笑って泣ける」という感想が相応しい一作には中々巡り会えないし、時代劇への惜しみない賛辞を含みながらも、良質なコメディによってそのジャンルの門外漢をも振り向かせるだけの強力なパワーを持つという意味では、まさに理想的なエンパワーメントと言えるのではないだろうか。何より、時代劇がTV欄を賑わせていた時代を知る年代の方々が劇場に駆けつけ、SNSの評判を通じてより下の世代にその熱量が伝播していくのだと思うと、関係者でもないのになぜだか嬉しくなってしまう。

 冒頭に申し上げた通り、「あぁ、映画っていいなぁ」と思い、灯りが点いた劇場を見回した。すると、まったく同じ言葉を呟いた老夫婦がいらっしゃった。もうそれだけで、胸がいっぱいである。

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