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次の10年に進むための引き金を。『劇場版 PSYCHO-PASS PROVIDENCE』

 シリーズ10周年の集大成となる劇場版『PROVIDENCE』を観て、期せずしてタイムリーなものになってしまったこの物語をどう咀嚼するべきか、非常に迷っている。たとえば、今向き合っているこのnoteのエディターにも「note AIアシスタント(β)」なるものが搭載されていて、私が何気なく書いたアイデアを読み込んで書き出しを提案したり要約をしてくれたりして、私の拙文を「正しく」してくれるらしい。それを用いてPV数が増えたり、文章が高く評価されたりするのなら、私は未来永劫それに頼らないと言い切れるだろうか。正しさを担保してくれる優しい他者に甘えずに、生きていられるのだろうか。

 というか、この強引な前置きもAIは「正しく」してくれるのだろうか。

※以下、本作のネタバレを含みます。

 本作で取りざたされる問題提議とは、「法は必要か?」である。2118年、シビュラが施行してから55年を迎えようとしている日本では、犯罪係数を用いた執行官による粛清を「法の裁き」に置換して、現行の法律の廃止が議論されていた。システムの有意性を理解しつつ、人間とシステムとが共存関係でなければならないと考える常守朱は廃止に反対するのだが、その議論の行方は海外船舶の襲撃事件によって一旦は棚上げされる。ところが、映画が進むにつれこの提言がもう一度顔を出してくる。ピースブレイカーの首魁である砺波告善(もしかして彼も“つげ ゆきひと”なのか?)曰く、人が人を支配する今の在り方では常に誰かが平和維持の犠牲として殺され消費される。だからAIに委ねてしまおうと、極端な思想を打ち明ける。

 砺波の理念が観客の思考を促し、社会秩序の改新になり得る魅力的なものに映るか、という部分については、個人的にはまったくと言っていいほど賛同できなかった。ピースブレイカーたちが信奉する「ジェネラル」は兵士たちの戦意を高揚させるプロパガンダを発し続け、砺波はその傀儡として洗脳と殺戮のインフラを構築しただけの人間に過ぎず、強烈な疎外感やシステムの爪弾きにされた者の哀愁を漂わせながら社会に刃を向けた槙島や鹿矛囲の鮮烈さにはどうしても劣る。ストロンスカヤ文書を取り込んでアップデートしたとして、ジェネラルは紛争と死をばら撒くだけのAIになり果てていたのだから、方法はダーティでも平和を維持するために思考しているシビュラの方が幾分かマシであろう。神の言葉を騙ることで兵を動かし、色相を濁らせぬまま犯罪行為を実行させるという発想こそユニークだったが、砺波ならびにピースブレイカーはシビュラの代替となり得るほどのカウンターとして作用しなかったことは、本作の見過ごせない弱点に思えてならない。

 では本作の何に私が惹かれたのかと言うと、このシリーズを「常守朱の物語」に引き戻し次の10年に繋げるための大胆なクライマックスそのものであった。

 本作の前日譚にあたる『Sinners of the System』はスピンオフの側面が強く彼女が前面に出るような話ではなかったし、『3』ではなぜ収監されているのか?という謎を振りまいて彼女自身は達観したような視点で意味深なことを言うばかりだった。作中でも随一の色相美人であり、職業適性を信じて執行官になったにも関わらず、いつしか「システムが統治する社会で人間はどう生きるべきか」の深い洞察を持ち、シビュラにも一目置かれるという超常の存在となっていった常守朱。そんな彼女が久々に感情を露わにし激昂や落涙をする人間らしさを全編に渡って披露し、そして「人間」だからこそ下せる判断によって初めて犯罪に手を染めるところまで彼女を追い詰めた本作の物語は、どうしようもなく魅力的だった。

映画の感想について聞かれた花澤は、「今回は朱ちゃんの物語だと監督から宣言されていたので……。最後の最後のシーンで彼女の肩の荷が下りたというか、素直な気持ちが出てきたところを演じられてすごくよかったです」としみじみコメント。そのシーンについて塩谷監督からは「彼女は泣きたくて泣いているわけじゃないからね」と言われ、それを手がかりに演じたことを打ち明ける。頷きながら聞いていた監督は「絵コンテのときに、彼女はスーパーマンでもスーパーヒーローでもなんでもない、普通の女の子ですと言って、作画をしてもらいました」と制作当時の裏話に触れた。

「劇場版 PSYCHO-PASS」最後のシーンに花澤香菜「彼女の肩の荷が下りた」

 数々の免罪体質(あるいはそれを疑似的に模した者)と相対してきた常守朱は、シビュラでは裁けない悪人がいるという事実を知る、あの世界では数少ない人間の一人だ。故に彼女は法の必要性を訴えるも、シビュラの真実を明かせない以上それを納得させるだけの材料を集めるのは至難の業であろう。彼女は刑事としてではなく、政治家として生きるようシビュラや慎導篤志から求められ、選択を迫られる。砺波との闘いでは法を遵守する刑事として挑むことを固持するも、狡噛らを守るために厚生省公安局を辞めることになってしまった。そんな彼女が、人の世とシビュラの両方を守るために、その手を汚す。

 常にどんな時でも自分の信じる正義に一直線だった常守朱が、自らの選択で引き金を引かねばならない。この状況を作り上げるに至ったことが、『PSYCHO-PASS』シリーズが10年続いたことの意義だったような気がしている。『3』において慎導灼が「ドミネーターは引き金が付いているから、社会のための執行の最終責任は人間に委ねられている(だから好きだ)」と語ったことが、作中時系列を遡って重たくのしかかってきた。一介のシリーズファンとしては辛い結末だが、正義のための殺人を自らに課してしまった常守朱の姿は、シビュラシステムの統治する社会を根底から覆す、大きな一歩を踏み出した。なぜなら、彼女の色相が局長殺害後もクリアであった事実は、免罪体質のような存在を社会に強く知らしめる結果にも繋がるからだ(禾生局長が人間ではないため殺しても色相が濁らない、という事実は世間には公表できまい)。

 不完全な人間が作り出した法律があり続けることで、この社会は延命することができた。そして砺波が常守を評した「シビュラシステムを崩壊させる魔女」という言葉が、これからのシリーズで証明されていくのかもしれない。今回の映画は完結編などと銘打たれていることもないし、本作が成し遂げた取り返しのつかない展開は、これからも『PSYCHO-PASS』シリーズは続く、という宣言になるはずだ。次にシビュラ社会はどんな姿をして私たちの前に現れるのか。不謹慎なワクワクは映画館を出てから、一向に鎮まらない。

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