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新機軸と原点回帰のハイブリッド『ウルトラマンブレーザー』と、『大怪獣首都激突』が放つミニチュア特撮の輝き

 ウルトラマンブレーザー。初報の段階からこれまでの作品とは異なる雰囲気と風格をまとって我々の前に姿を現した巨人は、長きに渡るシリーズの中でもかなりの挑戦作であったことに、異論はないはずだ。

 劇場作品の出自ながら度々作品を跨いで登場し、後輩ヒーローのまとめ役を努めたゼロ。新たなTVシリーズの嚆矢として始まった『ギンガ』からバトンを繋ぎ、10年の大台を突破したニュージェネシリーズ。その歴史の中で、後年『ブレーザー』はどのような位置づけをされるのだろう。少なくとも、ここまで野心的で、ニュージェネの常識から外れた作品は、今後数年は観られないかもしれない。それほどに、『ブレーザー』とは劇薬であり、同時に愛すべきウルトラマンの一人であった。

TV番組『ウルトラマンブレーザー』

 劇場版に触れる前に、TVシリーズを振り返っていきたい。2023年7月から放送が始まった『ウルトラマンブレーザー』は、放送前のプレミア発表会の段階からすでに「何かが違う」と伺わせる仕掛けが提示されており、その上であの1話がその事前の期待の遥か斜め上を行くスタートを切ったことは、記憶に新しい。

 ニュージェネレーションシリーズは連作にして商業的・評価的にも成功を積み重ね、新作2クール+劇場作品が恒例になるほど、ウルトラシリーズの復権に多大なる功績を残した作品である。して、現在もその流れは受け継がれているが、『ブレーザー』はここへ来て先輩たちが繋いできた「型」をあえて意図的に脱する、新機軸のウルトラマンであった。

 『ブレーザー』が作品として挑戦したニュージェネのお約束からの脱却を簡単にまとめると、以下の通りになる。

  1. ジャグラス・ジャグラー以降定番となったヴィランの廃止

  2. 先輩ウルトラマンの力を借りる、あるいはマルチバースを利用したウルトラマン同士のクロスオーバーの排除

  3. ブレーザーの形態変化、インナースペース描写の簡素化と、新規怪獣を大量投入による物語的・商業的な軸としての「怪獣推し」

 2クールで物語を展開させる上での縦軸を担保しつつ、その当人のアクの強い演技やキャラクター性が人気を獲得し番組の顔としても絶大な効果を発揮した『オーブ』のジャグラス・ジャグラー以降、主人公に立ちはだかる敵として全編に渡って登場してきたヴィラン枠。あるいは、先輩ウルトラマンとの緩やかな繋がりをTVシリーズや配信作品、劇場版などで明示しつつ、商業的にも変身アイテムの小物(カードやメダル)が増え遊びを拡充させるための仕組みとして当たり前のものとしてファンも飲み込んできたクロスオーバーの要素。『ブレーザー』はそれらの要素を出来る限り最小限に、少なくとも作品の内部では潔く断ち切り、『ブレーザー』単体で成立するように設計されている。

 その代わりに本作が番組の顔として打ち出してきたのが、「怪獣」である。これもまたウルトラシリーズのお約束とされてきた、既存怪獣の再登場を極力廃し、見たことのない怪獣が毎週のように画面を賑わせ、その日の朝には新しいソフビが玩具屋の棚を潤している。怪獣ソフビの新しいブランド「ウルトラ怪獣アドバンス」がリリースされ、箱入りかつギミックが盛り込まれた大型ソフビは、それでいて極端な高価格というわけでもなく、ファンの注目を一手に浴びる番組の顔として活躍。

 また、作品内の描写の注力も怪獣に寄った傾向があり、新規怪獣がその能力や各々の動機を持って大暴れし、今作の防衛隊にあたる「SKaRD」がそれに対処。怪獣の行動や性質を分析し、「23式特殊戦術機甲獣アースガロン」を用いて怪獣撃滅などの任務に赴く描写が描かれる。

 『Z』でも好評であったお仕事ドラマ的な視点を再び採用し、怪獣に立ち向かう人間たちのドラマよりも「対処」そのものに作劇の比重をより多く割り振った印象の『ブレーザー』は、視聴者にとっても初めましての怪獣であるため先の展開が読めず、プロフェッショナルとしてキビキビ働くSKaRD隊員たちの活躍に目を見張り、その連続が各エピソードのバラエティ化に貢献する。対怪獣を主軸とした一話完結のフォーマットはウルトラシリーズの基礎中の基礎なれど、先述のヴィラン制や先輩ウルトラマンの客演の廃止を含めると、栄光の初代『ウルトラマン』に回帰した趣きさえ感じられる。

 ヴィランがいないとて縦軸がないということはなく、本作は続々と襲来する地球怪獣に手を焼きつつ、その中でも宇宙から来訪した怪獣を特別なものとして扱い、それらがファーストやセカンドとカウントされ、かつ彼らが同じ軌道を通って地球に襲来し、その背後には「V99」なる言葉が見え隠れする、という方式で連続性を確保している。宇宙怪獣の目的は破壊や侵略といった「意思」によるものなのか、地球怪獣は一体何を想い空を睨むのか。それらが実は一本の線で繋がっていたことが明かされる最終三話のカタルシスも見事で、物語の顔としての怪獣の存在感は一時も薄まることはなかった。

 番組の主役は怪獣なれど、その他のキャラクターの描き込みが薄いことは意味しない。SKaRDの隊員たちもその時々でエピソードの主役を担いつつ、ちょっとした掛け合いや作戦時の連携の細かい演出で深い絆と信頼を描いており、その筆頭に立つ主人公ヒルマ・ゲントこそ、本作の白眉の一つなのだ。これまた新機軸である「防衛隊の隊長であり一児のパパであり同時にウルトラマン」というわけで、仕事と家族とウルトラマンの三つの板挟みとなり、主に家族との約束を裏切ることになりつつも、その人柄と頼れる存在感を体現する蕨野友也なくして、『ブレーザー』は成立しなかったであろう。一話で見せた「他部門の顔を立てつつ、こちらの要求を通す」処世術があまりに素晴らしく、一方で子どもとのコミュニケーションの時間をとれない辛さ、そのことを暗に妻から責められるシーンの緊張感は、世のお父様方の胸を締め付けたであろう。

 そんなゲント隊長の元に集う隊員たちの個性も各話に散りばめられ、その右腕としてゲント不在時の隊を支えるテルアキ副隊長、分析を得意分野としつつ「V99」を追う探偵役として機能するエミ隊員、生真面目な性格と時折発する「ボヤき」が妙に頭に残るアンリ隊員、機械に愛情を注ぎ頼み事は断れない優しい性格のヤスノブ隊員。彼らの団結が終盤の決死の作戦に赴くシーンで爆発的な感動を生んだことは、鑑賞済みの方であればご存じのはず。怪獣をメインとしつつ、有事に対応する職人たちのドラマもきっちり描ききったことは、本作の高い完成度に直結する。

 そして、第一話の鮮烈なファーストインプレッションが忘れられない、ウルトラマンブレーザー。人間の言語を発しないウルトラマンは『トリガー』『デッカー』と続いてきたが、雄叫びを上げ狩人の如く槍を振るうウルトラマン像は、想定外だった。ウルトラマンが大なり小なり纏ってきた神秘性を自ら剥ぎ取り、その荒々しい動きを最大の個性とするブレーザーは、前代未聞の言葉が相応しい。

 しかし個人的な感想を言うのであれば、ブレーザーの姿は、どうしようもなくカッコよくて、惹かれてしまうのである。初代ウルトラマンのリブートかつ成田亨デザインの具現化としてこだわり抜いた『シン・ウルトラマン』が直近であり、神的存在であるからこその完璧なシンメトリーが基調のリピアーとはまるで異なる、アシンメトリーのデザイン。ウルトラ戦士の歴史の中でも亜流であることが一目瞭然ながら、流れてきたツイートの受け売りだが印象的な赤と青のラインを「動脈と静脈」とすると、ブレーザーはこれまで以上に「生物」としての意匠が強いウルトラマンであり、人と合身する巨人として、腑に落ちる。ゲントとブレーザーがそれぞれ固有の意思を持つ存在として描かれ、両者を内包することを意識したデザインは、作品が訴えかけるテーマ性とも深く合致する。

 ゲントとブレーザーは言葉での対話は基本的に果たせず、時に怪獣撃滅に際して両者の意思が反することもあった。だが、それでもゲントとブレーザーは手を取り合うことを諦めず、二人は一心同体として闘い続けた。方法は野蛮でもゲントを気遣うブレーザーの姿は愛らしく、ゲントの身体を通じて地球やそこに住む人間のことを知り、少しずつブレーザー本人の意思が読み解けるようになっていくなど、ゲントにとってブレーザーはまるでもう一人の子どものようであり、同時に頼れる相棒なのである。その絆はさらに広がりを見せ、言葉による意思疎通が果たされる最終話の感動は格別である。

 ウルトラシリーズ、とくにニュージェネシリーズはその後の基礎となるお約束を積み立て、少しずつ盤石の体制を築いていったが、その集大成としてここまで大掛かりな「外し」をやれるところまで成長しきったところに、一人のファンとして嬉しく思ってしまう。良い悪いではないのだが、ここまで過去のリソースに頼ること無く、一作品で完結するウルトラ作品というのは、TVシリーズの歴史で俯瞰すればかなり久しいことである。

 ハードSFを匂わせつつ、基本的には初代『ウルトラマン』への原点回帰としての対怪獣ドラマに振り切り、それでいて『Z』の特空機を受け継ぐアースガロンやお仕事ドラマとしての味わいを織り交ぜながら、人間とウルトラマンのファーストコンタクトにフレッシュなアイデアをこれでもかと投入する。新しくもあり、懐かしくもある。これこそが『ブレーザー』の醍醐味であり、ニュージェネ10年の熟成が紡ぎあげた意欲作の本質ではないろうか。

 商業的にもかなりのチャレンジに取り組んだ『ブレーザー』。その成否はバンダイなり株主の皆々様がこれから評価を行っていくとして、一視聴者である私の『ブレーザー』に対する見方は、この通りである。

映画『大怪獣首都激突』

 かなり前置きが長くなってしまった。が、本作を語る上で、どうしても話しておきたい"スタンス”の話がある。

 「特撮」とはなにか。辞書通りに回答すれば「『特殊撮影』の略。あるいはその技術を用いて製作される映像作品等のジャンルを指す」となるだろうが、その定義をファンそれぞれが美学や哲学を有している気がしてならないことを、SNSをやっていれば日に日に感じてしまう。そして時に、その美学が相容れず、無用な争いが起こるところも、目にしてきた。

 ここでハッキリ表明しておくのなら、私個人にとっては「その時々の技術を用いて作られるものが特撮」であり、何を言いたいのかと言えばフルCGもアナログ特撮も貴賤無く「特撮」であり、優劣は存在しない、ということだ。CGでダイナミックに動く大怪獣も、人が入って動く従来のスーツ怪獣も、各々の得意分野を活かしてスクリーンで大暴れし、その姿に喝采を送る。どちらが優れているだとか劣っているだとかは無く、双方共に好きであり、大好きだ、ということなのだ。

というか、この手の議論で槍玉に上げられがちな『シン・ゴジラ』『ゴジラ-1.0』もゴジラそのものはフルCGでありつつ、街の破壊描写や実景などで従来の特撮技術が用いられており、作り手も過去の技術に敬意を払い、そこにCGを活用したハイブリッドな製作体制を敷いていることが、少し調べればわかるはず……である。

筆者余談

 というわけで、今回の映画『大怪獣首都激突』だが、個人的にはご褒美のような作品であった。田口清隆監督は過去幾度となく平成ゴジラシリーズへのリスペクトを表明し、かつそれを作品内に反映させ続けてきた恩人であるが、本作はまさにその集大成。何せ「着ぐるみ怪獣が」「国会議事堂というゴジラ史的にも重要なランドマークを襲う」映画の名前が『大怪獣首都激突』である。やりすぎである。怒られなかったのか?

 川北逆光を受けて銀幕にその姿を現す大怪獣ゴンギルガンと、我らが首都防衛の要アースガロン。ブレーザーを交えた三者の激突は国会議事堂を半壊にするほどの大惨事となるが、壊されるために精巧に造られた国会議事堂のミニチュアが、その精密さを見せびらかすようにアップになって、怪獣たちの攻撃を受け崩壊する。国会議事堂というランドマークが壊される様子をわざわざスローモーションに、かつフェティッシュに描く様は、都市破壊が映画の醍醐味でもあった平成ゴジラシリーズそのもので、企業スパイが暗躍する『ビオランテ』、大量発生する群体怪獣に対し白兵戦を挑む『デストロイア』のオマージュを思わせる展開も恐らく意図的だろう。

 先の「特撮とは何か」問題に通ずる話だが、CGにはCGの、アナログにはアナログの得意分野や趣がある。実物が粉塵を撒き散らしながら粉々になっていく様を、偏愛的なカメラアングルで収める本作は、まさにミニチュア特撮の真骨頂。霞が関の風景が怪獣に蹂躙される映像の、背徳的な喜びと興奮。1954年の『ゴジラ』でも国会議事堂の破壊シーンでは拍手が起きた、なんて噂話を聞いたことがあるけれど、あの建造物は日本人の琴線に刺さる何かがあるのだろう。これを観たくて、我々は映画館に駆けつけるのだ。

 怪獣こそが番組の顔であった『ブレーザー』の劇場版ということで、その点も抜かりない。今作のボス怪獣ことゴンギルガンは、その実態は「大声で泣き叫ぶ子ども」として、一児の父であるゲントの前に立ちふさがる。

 ネクロマス社CEOのマブセイチロウは怪獣の細胞を研究し人類の不老不死や不治の病の解消に役立てようとする研究者であり、同時に一人息子ユウキを男手一つで育てている……が、実際のところユウキ少年は孤独を感じており、イチロウは妻を亡くした経験を言い訳に研究に没頭していた、というもの。そのことを表面上は受け入れつつ、本心としては寂しい、本当に欲しいものが得られないという悩みは、ユウキを誤った方法に進ませる。

 父の研究を焼き尽くし、産まれた怪獣ゴンギルガンに取り込まれるユウキ。彼の怒りの矛先は“汚い大人たち“に向けられ、そうした奴らが集まる場所として国会議事堂を襲撃する。子どもたちの心情を理解せず、大義名分を振りかざし自分の私利私欲のために暴走する。そんな大人たちを、子どもは見抜いている。

 この重たい問題提起について、大人であるゲントたちはユウキを「説得」しようとはしなかった。お父さんはキミのことを想っているんだよといった綺麗事も言わず、彼の愚行を頭ごなしに否定もせず、ただ起こったことを受け止め、人命救助に全力を注ぐ。子どもの世話に悩み、側にいたくとも叶えられないゲントにとって、これほど胸が痛む任務はないだろうけれど、一個人の感情を抜きにして任務に全力投球。

 ユウキを救い出した後、「待ちくたびれたか?」とブレーザーと一体となるゲント。本作のキャッチコピー「俺たちが、行く」とは、TVシリーズ最終話を経て二度とその手を離すまいと誓った両者が、子どもの命のために全力で闘う、その意思表示の言葉なのだろう。

 ただし、そうした座組を実現するにあたり、ユウキの犯した罪があまりに大きすぎる点は、感情移入に対する大きなノイズとなってしまった。

 防衛隊をハッキングしてミサイルを操り研究所を破壊、の時点で誰かしら死傷者が出ているだろうし、ゴンギルガンによる被害の規模も計り知れないだろう。子どものしでかしたこと、で遺族が納得するわけもなく、マブセ親子はこれからの人生を一生この罪滅ぼしに費やすのだろうと思うと、どうしても気が重くなる。人一人が背負える責任をゆうに超えており、彼が自分の行いと向き合った時、残念ながら「お父さんが構ってくれなかったから」なんて言い訳は通用しないのである。

 このあたりは、私も汚い大人になってしまったから、かもしれないけれど。

 ウルトラマンブレーザー、これにて一応の一区切り。実は今回、『大怪獣首都激突』の舞台挨拶に参加する機会を得たのだけれど、最後のご挨拶で蕨野友也氏は「これでお別れではありません」と仰ったことが、忘れられない。

 『ブレーザー』は数々のチャレンジに挑んだ作品なれど、怪獣を主役とした一話完結のドラマに回帰したという意味で、あるべき姿に立ち返ったとも言える一作でもある。そんな『ブレーザー』が一度限りの大博打で終わっては寂しいし、ゲント=ブレーザーの正体がバレていないことやゲントの第二子の件など、まだまだ世界観を拡張させられる余地は残されている。

 衝撃の第1話から走り抜けて、「人とウルトラマン」の関係性の原初の形を描くことでゴールした『ブレーザー』。もっとその先を観たい、ゲント隊長たちとお別れしたくないという気持ちが、この文章を書きながらふつふつと湧いてくる。

 願わくば、そんな遠くない未来に。この作品に伸ばした手を、こちらも離さないでいよう。

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