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四の五の言わず殴り合え!!歓喜と懺悔のタイトルマッチ『ゴジラVSコング』

 ゴジラVSコング。ゴジラとコングが、平成を飛び越して令和の今、再び対決した。今、この地球最大の決戦を目撃し、未だ震えの止まらない身体でこれを書いている。そして、おれがすべきことはたった一つ、誠心誠意を込めた謝罪、ハラキリでケジメをつけることだ。


アダム・ウィンガードさん、靴を舐めさせてくれ。

 以前おれは、Netflix版『Death Note/デスノート』に失望し、このアダム・ウィンガードなる男に巨神対巨神の再映画化を任せるというハリウッドのお偉いさんの判断に、とてつもない不安を抱いてしまった。原作漫画を再構築し大胆なアレンジを加えた新生版の、自分のデスノート感とはあまりに乖離したその出来栄えを目にした時、暗澹たる気持ちを隠せなかったのだ。

 なにせ、キングコング対ゴジラのハリウッド版なんて、おそらく二度と実現しない一世一代の一本になることは目に見えていた。なればこそ、「外してほしくない」という身勝手な感情だけが先走りして、冷静になれなかった。

 しかし、だ。アダム氏の手腕をデスノート一本で推しはかろうとしたおれの方が、浅はかだった。『サプライズ』も『ザ・ゲスト』も面白かったし、まぁ『ブレア・ウィッチ』はアレの続編という時点で分が悪いので置いておくとして、そういえば『Death Note/デスノート』だってミサの改変やゴア描写を含むノートでの殺人描写はユニークだった。

 さらに、彼が発表したゴジラ映画ベスト5は大変興味深いものだったし、デストロイアをお気に入りに挙げていたり「ミレニアムは過小評価されている」と発言したりと、信頼できる男だというのが段々見えてきた。そして、何度かの上映延期を挟んで待望のトレーラーが公開され、これまでの杞憂は一気に吹き飛んだ。あぁ、彼も間違いなく“モナーク”なのだと、瞬時に悟ったからだ。

 モナーク。怪獣オタクを冬の時代から救ってくれた世紀の映画史ことモンスターバースを縦断する組織の名称であり、同時に「怪獣狂い」を指す言葉である。類語として怪獣優生思想というものがあるが、要は怪獣映画が大好きで大好きでたまらないキッズたちが創る側に周り、心の中の5歳児を喜ばせるためにそれぞれの思想を実現する、映画をおもちゃ箱に変えてしまう魔法使いたち。

 ギャレス・エドワーズ、ジョーダン・ヴォート=ロバーツ、マイケル・ドハティ……。遠い島国のカルチャーに多大な影響を受け、そのリスペクトをふんだんに盛り込んで、自分と、そしてKAIJUファンを虜にする作品を世に送り出した巨匠たち。そして、彼らの隣に並ぶ偉大な男の名こそ、アダム・ウィンガードなのである。

 あぁアダムよ、どうかおれを赦してほしい。こんな夢みたいな企画を、あなたに任せることに一瞬でも反対してしまった、愚かな私を。「One Will Fall って言ったってアメリカの映画だし忖度オチでしょw」などという偏見で臨んでしまった、どうしようもない私を、放射熱線で焼き殺してほしい。まさかあなたがエヴァンゲリオンまで大好きで、こんなにサービス満点で怪獣愛に満ちたエンタメ快作を創るべく、真正面から『ゴジラVSコング』に向き合ってくれていたなんて。ごめんなさい、そしてありがとう。今言えるのは、それだけです。

真の王を決めるために

 前作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が(かなりトチ狂った)宗教映画だとするなら、本作はタイトルマッチが主題である。あり得ないほど荘厳で美しいカタストロフが拝めた前作と比べれば、本作はカロリーとボリュームで勝負のメガ盛り牛丼だ。バランスの取れた栄養素や見栄えなんて度外視の、とにかく腹を満たしたい時に立ち寄るチェーン店のアレ。

 ……いや、何も本作を貶したいわけではない。お腹いっぱい美味しいものが食べられる、結構じゃないか。怪獣映画の醍醐味とは何か?社会批評や文明論、あるいは都市破壊に対する仄かな破壊欲求の充足と幾らでも思いつくが、デカイ怪獣と怪獣が本気で殺し合うのが見たいという欲求こそ、好んで怪獣映画を観る動機の大きな側面であることは間違いない。

 その観点で言うと、現在の怪獣王、すなわちキング・オブ・モンスターズこそ、我らがゴジラである。宇宙からやってきた偽りの王・ギドラを下し、全ての怪獣が彼の下にひれ伏す様を観た瞬間、歴史は大きく動いた。

 ギドラとの死闘を終えたゴジラの前に集結する、数多の怪獣たち。彼らは次々に頭を垂れ畏敬の念を示し、高らかに咆哮するゴジラ。その姿に重なる伊福部昭の旋律、そしてタイトル『Godzilla: King of the Monsters』!!!
 感無量の一言だ。怪獣、いやモンスター映画の元祖は『キングコング』だが、それを生み出したアメリカの映画で、「ゴジラこそが怪獣王である」と打ち出されてしまった。これで正真正銘、ゴジラがこの世に産み落とされたモンスターの中で頂点に君臨する王であることが、証明されたのだ。

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は王位戴冠式である。

 モンスターバースにおいて、生態系の頂点は矮小な人間などではなく、彼らタイタン(怪獣)であると明示されており、その頂点にあたるのがゴジラである。この地球に生まれた全ての生物を統べる、王の中の王、ゴジラ。その咆哮を聴けば並みの生物は畏れ慄き、地球は元の姿を取り戻すように再生を始めていった。生態系の調和が保たれ、全ては大いなる存在に奉仕する形で元通りになっていく。

 しかし、だ。このモンスターバースにおいては「王になる」ことこそが怪獣たちの闘う理由である。であるのなら、誰か忘れていないだろうか。かつて「キング」の名を冠し、全てのモンスターの祖たる存在。映画史にその名を刻む大スター、髑髏島の守護神ことコングである。

 『キングコング』がいかに偉大な作品であるかを、わざわざ語る必要はないだろう。ただ一つだけ確かなことは、コングなくしてゴジラの誕生はあり得なかったという、「特撮」という文化の成り立ちにも根差した不変の事実である。それを鑑みれば、よそ者のデカい恐竜が自分のホームで「怪獣王」などとチヤホヤされて、コングさんにとっては面白いわけがない

 その想いがあればこそコングさんは手加減一切無しの右ストレートを喰らわしたり光る!鳴る!DXコングアックスを持ち出して王座奪還を狙うし、おれたちのゴジラさんは「ちょっと先輩に華を持たせてやりましょうかね笑」とヒール役を買って出て、王者の余裕を見せつけてくれるわけで、それを見た我々人類はyeah!!かwow!!しか言えなくなってしまう。

 驚くことに、本作の物語や登場人物のIQは前作よりも下がっており、可愛い可愛いマディソンちゃんも陰謀論に染まったちょっとアレな女の子になっていたり、あの芹沢博士の息子という設定で登場したとは思えない小栗旬のあの扱いには思う所があったりと、人間ドラマの要素は希釈されすぎて単なる添え物以上の役割を果たしてはいない。

 だが、モンスターバースにおいてはそれが「正解」なのだ。深淵な人間ドラマが堪能したければ、54年の初代ゴジラがある。今回はそういうことじゃない。だって、目の前でゴジラとコングがマジで殺り合っている、それ以上に優先して描くべき事柄がこの世にあるか!?!?!?

 1962年当時の着ぐるみ特撮では成しえなかった、水中からの奇襲や香港の摩天楼を飛び交っての一大スペクタクル、圧倒的な力と力のぶつかり合い、王座をかけたマジバトル、熱線技を持たないコングがゴジラに対抗するために生み出したウルトラC、向かい合っての咆哮(ここエクスタシーすぎてなんか出たかと思った)。ハリウッドがアホみたいな巨額の予算を投じて、低俗なパロディや照れでお茶を濁すことなく、本気でこれがカッコイイと信じ、本気でこんなスゴい映像が観たいし見せたいから、全力全開で創り上げた自信作。『パシフィック・リム』で全地球のオタクの心を鷲掴みにしたレジェンダリー社が、ついにやりやがった!!!!映画館の座席に座りながら、身体は感動と興奮で震え、感染防止のマスクが意味を成さないくらいに歓喜の声が漏れていた私を、どうか責めないでほしい。

 それだけでも十分にスゴいのに、ああっ、レジェンダリー社め、アダム・ウィンガードめ、あとちゃっかり脚本に参加しているマイケル・ドハティめ!!最後の最後にとんでもないことをやらかしてくれたおかげで、地球最大の決戦にもう一つブーストがかかってしまった。

以下、映画本編のネタバレを含みます。

 ゴジラとコングの王座決定戦に割り込んできたニューチャレンジャー、まさかのメカゴジラ参戦である。日本での劇場公開が遅れに遅れ、サプライズとしての役割を果たせぬまま哀しいデビューとなったが、ついにモンスターバースに人造怪獣が加わったことで、生態系の王たるタイタンへの挑戦が可能となったのである。

 さらにこのメカゴジラ、人間が操るためのテクノロジーとして前作のラストに意味深に登場したギドラの首が使われており、結果としてメカゴジラは暴走、ゴジラとあと一歩まで追い詰めるという強大な力を見せつけるのであった。巧いことに、ギドラとて「キング」の名を冠する怪獣の一人であり、こうして姿を変えてキングオブモンスター・ゴジラにリベンジを仕掛ける形での緊急参戦に、否応なく盛り上がる。

 もちろん、キドラを流用して誕生するメカゴジラといえば93年のVSシリーズ版、暴走ならミレニアムの三式機龍(と坂井孝行版コミカライズのVSメカゴジラ)を彷彿とさせるわけで、決して客寄せパンダではなく“わかっている”人が送り込んだ刺客として、二大スターを窮地に追い詰める。

 これまた巧いことに、決着のつけ方も粋だった。先の香港戦において、ゴジラVSコングはゴジラの圧勝だった。だが、ゴジラ一人ならメカゴジラには勝てなかった。二人だから、逆襲のギドラに立ち向かえたのだ。ゴジラの熱線の力を受け継ぎ、メカゴジラを完膚なきまで大切断。最後は首をもぎ取ってのフェイタリティ(奇しくも今『モータルコンバット』が上映されているではないか!!)で、宇宙怪獣のリベンジにNOを叩きつけた。

 ゴジラVSコングの決着を明確に描きながら、しかし敗北者としてコングを貶めることなく、偉大なる巨神が共闘して敵に立ち向かう。ありふれた(そして時に興ざめな)風呂敷の閉じ方だけれども、ゴジラの王の座が守られ、コングもまた共存を許された世界がスクリーンに広がった時、このモンスターバースのその先を観たいと素直に思わせた時点でこの映画は「勝ち」だろう。とくに、モンスターバースにおける怪獣の感情表現の豊かさには驚くばかりだが(着ぐるみ特撮との優劣ではなく、人間のような演技に寄せる方向も可能になった、という印象がデカい)、去り際の立ち振る舞いから「」を見せつけたゴジラを観て、日本人であれば心が沸き立ったはずだ。

 ここからはまた自分語りになるが、15年ほど前、怪獣映画というジャンルは冬の時代真っ只中だった。ゴジラの新作が途絶え、ガメラも一本限りで力尽き、ウルトラマンとて満足にTVシリーズを放映できなかった。そんな折、ゴジラの再ハリウッド映画化の噂が飛び交い、『パシフィック・リム』を挟んでその噂が現実のものとなり、コングも単独映画が製作された。その集大成として『ゴジラVSコング』が実現し、そしてその先には庵野秀明/樋口真嗣による『シン・ウルトラマン』が控えている。過去のアーカイブでしか怪獣に触れられず、周りに特撮怪獣映画が好きとも言い出せなかった当時の自分にタイムマシンに乗ってこの事実を伝えても、たぶん信じなかっただろう。

 だけど、確かに冬は開けて、怪獣たちの春が来た。全世界が怪獣映画を観に足を運び、サブスクに課金して、思い思いの方法で大スペクタクルを堪能する。その歴史的瞬間に今、自分が立ち会えているのだという実感、そして喜びこそ、あの頃の自分に伝えてあげたいのだ。ゴジラのフィギュアを片手にはしゃぐ子どもを劇場で見かけた時、そう思った。心の中の5歳児がまた、おもちゃ箱からゴジラのソフビを取り出したようで、今とってもワクワクしている。

 であるからこそ、おれはアダム・ウィンガードさんに足を向けて眠れないし、二度とナメた口も利けないのであった。マジでナマイキ言ってスミマセンでした。VSコングまでやったら次は怪獣総進撃かVSガメラしかないと思うんで、その節はまたよろしくお願いします。

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