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『ゴジラ2000 ミレニアム』は今リメイクすれば名作が生まれるかもしれないという話

 1954年11月3日は映画『ゴジラ』が公開された日。それにちなんで、11月3日は「#ゴジラの日」として、日本記念日協会から認定を受けた立派な記念日である。『シン・ゴジラ』の大ヒットを契機に日本を代表する名キャラクターの立ち位置に復権し、様々なコラボレーションやグッズ展開、海の外ではモンスターバースも進行中とのことで、10数年前までの怪獣映画冬の時代がウソのような好景気だ。

 そんな11月3日の昼下がり、日比谷のゴジラ・フェスの盛り上がりをSNSでチェックしつつ、なにかゴジラ映画でも観ようと思い立った。やはり定番の初代か、蒲田くんの上陸日に合せて『シン』か…。悩んだ末にふと目に止まったのが、1999年公開の『ゴジラ2000 ミレニアム』だった。この映画もちょうど公開20周年、久しく鑑賞していないこともあり、内容を忘れつつあった今、見返してみるのもいいかもしれない。そんな軽率な動機で鑑賞したが、思いの外見入ってしまい、幼少期とは全く異なる価値観や肥えた目で鑑賞に至ったがゆえに、本作への評価が大きく変わる体験をした。思い出補正とはなかなか恐ろしいものである。

 『ゴジラ2000 ミレニアム』は、自分にとっては初めて映画館で観た国産ゴジラ映画として思い出深い一作。98年のエメリッヒ版の反動を受けて製作されたとか、その割に日本のファンからも評価が低かったりといった諸事情は後から得た知識で、子どもなりにタコ型宇宙人のデザインがいくらなんでもお粗末に感じたり、ラストシーンのどこか言語化しがたい余韻を家まで持ち帰りつつ、ヘンな映画だったなという当時の印象を保持したまま大人になってしまった。映像は暗いし登場人物の表情やBGMも重苦しく、都市破壊や怪獣バトルのカタルシスも薄い本作は、人間ドラマを味わう余裕のないお子様の自分には退屈に映ったのだろう。実は、アラサーになって見返した今でもその印象は変わりないのだが、平成VSシリーズにはなかった本作の重厚さが「ゴジラ新世紀」を謳う作り手の意図的なものでありながら、諸々の歯車が上手くかみ合わなかったがゆえの「惜しさ」こそが昨今の低評価の原因ではないか、というのが今回の発見であった。

1999年、巨大怪獣ゴジラが北海道根室市に出現した。民間の調査機関であるゴジラ予知ネットワーク(GPN)を主宰する篠田雄二は、娘のイオ、雑誌記者の一ノ瀬由紀らと共にゴジラを追い、その破壊を見届ける。発電所を破壊するゴジラを見た篠田は、「ゴジラは人間の作り出すエネルギーを憎んでいるのではないか」という仮説に思い至る。
一方、内閣官房副長官である片桐が局長を務める危機管理情報局 (CCI) は、海底にて強い磁力を帯びた岩塊を発見。CCIの科学者・宮坂四郎の提言により引き上げられた岩塊は、しかし突然自力で浮上し、ゴジラを攻撃する。岩塊の内部には地球外生命体が存在しており、ゴジラの驚異的な生命力の要となる物質・オルガナイザーG1を求めゴジラと対峙する。やがてその目的が「地球環境を自分たちに適したものに変えること」と判明した時、ゴジラのリベンジが始まる。新宿が燃える中、ゴジラと同化した地球外生命体・オルガが姿を現した―。

 本作を皮切りとするミレニアムシリーズは、一部の例外を除いて1954年の『ゴジラ』の続編、あるいはそれに類するゴジラとの遭遇を経た世界を舞台としており、怪獣の存在が周知の事実として根付いている。そのため本作では、ゴジラの上陸を予知、その情報を発信して被害を最小限とすることを(表向きの)目的とした民間団体と、自衛隊と連携して現場での決定権が与えられた内閣直属の組織の双方がゴジラを追い、それぞれに属するキャラクターの異なる思想がテーマとなっている。

 民間側、ゴジラ予知ネットワーク主催の篠田は、ゴジラを観測・研究することで「生物」としてのゴジラの謎を追うことに心血を注いでおり、科学者としての知見からゴジラを知ろうとする人物。全てを超越した生命体であるゴジラをそれこそ「神」のごとき存在ととらえているフシがあり、ゴジラを生み出した人類の化学・文明の発展を「暴走」と称したり、ゴジラ抹殺そのものを傲慢と捉えており、初代における山根博士の意思を受け継いだキャラクターなのは間違いない。

 対する内閣側、危機管理情報局局長の片桐は、ゴジラを倒すべき敵ととらえたことで篠田と袂を分けた過去を持ち、現在の立ち位置に就いてからはゴジラ殲滅のためにその指揮能力を振るっている。ゴジラへの敵対心は強く、自らに死が迫ってもゴジラに背を向けることを許さず、その死に様はファンの間でも語り草となっている。

 篠田と片桐。実は同じくゴジラに執着した男でありながら、思想の違いにより両者は決別し、全く異なる顛末を迎える。とくに、ゴジラを打ち倒すことを放棄し、人類の罪としてその存在を認めた者が生き残るというのが意味深で、戦争と核の恐怖が生々しい1954年の初代から40年が経過した新世紀のゴジラが内包する恐ろしさは、「災害」「天変地異」のニュアンスへと変遷していった印象を受ける。もちろん、行き過ぎた発展への警鐘という側面も持ち合わせながら。

 上掲の予告編を観て気づいたのだが、実は今作の敵怪獣オルガの存在は巧妙に隠されている。今でこそオルガがバッチリ写ったポスターやフィギュア等出まわっていて当時の宣伝物を見返すのも難しいわけだが、実はオルガは存在自体がサプライズだったのかもしれない。確かに、その出自はショッキングなものであった。

 岩塊の中で息を潜めていた地球外生命体は、その姿を量子流体化させ、海底に潜んでいた。彼らは光をエネルギーとしており、探査船の照明により復活。その目的は地球環境を自分たちに適したものにすること、肉体を得るためにゴジラの細胞・オルガナイザーG1を吸収することであった。だが、オルガナイザーG1を制御できなかった生命体の肉体は異形の怪獣のものへと変貌し、なおもゴジラと同化しようとゴジラ自身を取り込もうとする。大きく裂けた口と、ゴジラと同じ形の背びれが背中を割って生える様子はおぞましく、同化元のゴジラに命を絶たれる皮肉な結末が尾を引く。

 肉体を得るためにゴジラを求めるこの異形は、前述の篠田・片桐のゴジラへの「執着」というワードに呼応する。ゴジラを取り込み同化する=我が物にしようとするオルガ(地球外生命体)は、どちらかと言えば片桐の思想に近い。ゴジラを制御しようとして出来なかった怪獣が、ゴジラによって滅ぼされる。その姿を見て、片桐は自らの敗北を悟ったのかもしれない。だからゴジラから逃げなかったとしたら―。ゴジラの動機を「リベンジ」であると篠田と同じく見抜いた片桐だが、その実彼はオルガに同調していて、ゴジラを殲滅する意思をオルガに仮託していたかもしれない。ゴジラを求め彷徨うオルガの狂気は、片桐のそれと同質のものである、というのが今回の再鑑賞の一番の発見である。

 そうした対立軸を置きながら、一つ一つの要素はとても興味深いものがある。ゴジラ災害への内閣機関がある設定ゆえにフルメタルミサイルやブラスト・ボムといった特別兵器があるのも納得がいくし、民間団体とのスタンスの違いだけでもドラマになる。後にアニゴジ三部作の音楽も手掛けることになる服部隆之氏の劇伴も、耳に残る名スコアが目白押し。そして何より、内閣側にいながらゴジラへの科学的興味を隠しきれない科学者・宮坂役に佐野史郎をキャスティングするお見事な配役!宮坂に限ってはキャラクターの説明が不要に感じるほどにキャスティングによる説得力が強いのだ。

 それらの要素を鑑みても、どうしても拭い去れない物足りなさ、「惜しさ」を感じさせるのはなぜか。まずは、尺が足りないゆえの描写不足が挙げられる。メインとなる篠田と片桐の対立について言えば、両者がなぜゴジラへの執着を抱くに至ったかが語られず、ゴジラを追うという常識外れの行動に出る動機が欠けているため、観る者の感情移入が難しい。ゴジラに魅入られるだけの強烈な過去に関する言及が一つでもあれば、篠田と片桐に血が通い、あのラストも唐突に感じられなかったかもしれないのだ。あえて言うが、「篠田は山根博士を投影したキャラクターで~」「一人の科学者としてゴジラに魅了されていて~」という読み解きができるのはゴジラファンだけである。もう少しわかりやすさに歩み寄った描写が必要だったのではないだろうか。

 唐突さで言えば、報道誌を嫌がっていたはずの一ノ瀬由紀が終盤ではエイリアンの目的を探るために独断行動をしたり、篠田や宮坂が「科学者としての傲慢さ」を語るシーンなど、台詞や行動に納得のいく道筋が与えられておらず、観ながら困惑してしまうシーンも多い。過度な科学や文明の発展が危険だと何度も語るものの、ゴジラを生んだ一方でその恩恵を受けながら生活しているのも事実なわけで、具体例として弊害が示されないまま抽象的に語られる「暴走」「傲慢」というワードの連発に、辟易としてしまった。

 あえて本作を作りなおすとすれば、冒頭の根室上陸シーンを過去の出来事として置き、ゴジラに対して篠田が魅入られ、片桐が憎悪を抱くきっかけを描くことで、現在に至るキャラクターの在り方に説得力が生まれる。同時に、ゴジラが発電所や原発を破壊した影響が今も尾を引いていることにすれば、ゴジラが科学や文化の発展への警鐘という側面も強く強調することができる。また、ゴジラ予知ネットワークが世間ではどのように受け取られているか(行政よりも支持を受けているか、独自のファンがいるか等)といった、現状の本編では描かれなかった要素にこそ、本作ならではの独自性を引き出すことも可能である。

 次に、映像技術と演出について。制作年を考慮してもCGや合成の質は『ガメラ3』よりも拙く、エイリアンの目的が判明するシーンの歴史資料館とかにありがちなスクリーンセーバー風の映像とか、もうちょっとなんとかならなかったのかと思わずにはいられない部分。ここにこそ、現代の技術でリメイクすれば名場面に様変わりする可能性を孕んでいないだろうか。そもそも地球外生命体が律儀にこちらの言語で目的を説明してくれること自体が不可解なので、その辺りは人類側が解明していただく流れにしていただきつつ、地球外生命体ミレニアンがオルガという異形に変貌する際に「苦しみ」のニュアンスを加えることで、その悲壮感を際立てる効果が得られる。というかそういうのが観たい。身体が変貌する「痛み」に悶え苦しみながら徐々にゴジラと同化していくオルガ、その肉体の表現をより生々しく、どこかフェティッシュに映像化してくれたら…。子どもが観る映画だからそういうのはムリだって!?ガメラ3のイリスたんをご覧になりました!?ああいうのですお願いします!!!!!!

 最後に取り乱したが、『ミレニアム』はゴジラに執着する男と男のドラマであり、ゴジラになれなかった哀れな生命体の末路であり、それら全てを超越し「人類」への憎悪を募らせるゴジラの在り方が描かれたりと、個人的なツボだらけな一作ではあったのだが、細かなボタンの掛け違いが重なった結果、どっちつかずに終わってしまった。叶わぬ願いとは承知しているが、過去作がリメイクされる機会に恵まれたとして、本作にはブラッシュアップの余地が多く、それゆえに大きく評価を好転させることも可能なのではと、つい夢想してしまう。名作と称されるだけのポテンシャルを秘めながらも上手く羽ばたけなかった『ミレニアム』は、その歪さゆえに深く印象に残る一本だった。

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