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麻生 鶴見川古地名散策

久美子もびっくり!「アソウ」じゃなくて「アサオ」なのっ!?

前回、月読神社にある下麻生亀井古墳群を巡りました。

せっかくなので下麻生古墳に行こうと思い立ちました。

鶴見川支流の真福寺川を越えて、坂道を自転車を押してGoogleマップの指示通り進んだら…そこは住宅地。

今はもう古墳の名残りさえ無い。
写真を撮ると不審者になりそうなので、そのまま立ち去る。
…でも、このままでは終われない。


籠口ノ池公園

手ぶらで帰るのが悔しいので、すぐそばの公園に寄ってみました。

少し行くと、池があった。

この池は、江戸時代に作られた灌漑用のため池。細い谷戸地形を利用し、堤を築いて水を堰き止めたようです。
近くに2代将軍秀忠の妻・お江の方の化粧領があり、その為か、お江の方が亡くなった後に、白蛇になってこの池に現れたという伝説が残っています。

現在は調整池として活躍中。大雨の時に一時的に(下流の川の水位が下がるまで)雨水を貯留する役割があります。

鶴見川には4900もの調整池があり、河川整備基本方針に基づき将来的には、基本高水流量2,600㎥/s(末吉橋付近)のうち、多目的遊水地をはじめ上・中流部の調整池群などにより800㎥/sの流量を調整するそうです。

池の反対側に階段がある。

高台があれば、登ろうと決めている!
池の全景が見えて来た

広場には遊具があり、日陰のある憩いの場になっています。
春には、桜が咲いてきれいだそうです。

さらに登ると‥わぁっ高い!

正面には、早野の丘陵地が見えています。


ロウ地名について
何度もしつこいですが、ロウ地名は谷戸を意味すると言われています。
【ご参考】
「籠場」「牢場」地名を考える1(柿生文化)
「籠場」「牢場」「籠口」地名を考える2(柿生文化)

こんなモノにも籠口が!
クレマチスの品種に籠口の名が!籠の口のようにすぼまっているから?

驚いたことに、この生産者が下麻生の方。もしかして地名由来の命名?


「麻生」の秘密に迫る!

麻生姓の有名人と言えば、麻生太郎麻生久美子麻生祐未(でも、後者お二人は芸名…)。麻生太郎さんは、炭鉱王の麻生家の御曹司であることからも九州に縁のある姓だとわかります。

「日本人のお名前」にご出演の森岡浩氏によると、麻生姓は九州北部と南関東(千葉、東京、神奈川)に集中しているようです。
そのうち、東日本の麻生姓について、次のように述べています。

麻生という名字は地名姓で、ルーツはいくつかある。一つは茨城県南部の麻生町(現在は行方市)をルーツとする桓武平氏の麻生氏。南関東の麻生さんのルーツはこれだろう。また、秋田藩は常陸出身の佐竹氏が藩主だったことから茨城をルーツとする名字も多く、秋田の麻生さんもこの系統。さらに愛知県にもそこそこいる麻生さんも、常陸系の一族の末裔であるなど、かなりの広がりがある。

なるほど。でも、茨城の麻生氏は、行方氏の三男が麻生の地に根を下ろし、地名を苗字とした一族。だから人名由来の地名という訳ではなさそう。

私が知りたいのは、麻生という地名の由来なのだ。


実は「アソウ」じゃない川崎市「麻生」区

以前、横浜市都筑区の「山田」を紹介した時も、呼称は「ヤマダ」ではなく「ヤマタ」でした。

今回取り上げる川崎市の麻生の呼称も、「アソウ」ではなく「アサオ」。

そうだったの?(というか、新百合ヶ丘って麻生区だったんだ!)

全然知らなかった。
でも、NHKアナウンサーも「カワサキシ・アソーク」って言っていたような…いや、「アサオク」と発音しても「アソーク」と聞こえているのかもしれない。

その由来は「麻が生えている」から。
ただし、なぜ川崎市の麻生だけが「アサオ」と呼ぶのかは不明です。
(他じゃ「アソー」って訛ったようだけど、ここじゃ昔っから「アサ・オ」って丁寧に呼んでたんだからね。川崎市なめんなよ…とは誰も言っていない)


麻生の歴史

麻生区は人口増加に伴い、1981年に多摩区から分離された新設区。しかし、麻生の地名の歴史は古いと考えられています。

麻生が初めて記された公文書は、元弘3年(1333年)後醍醐天皇が麻生郷を足利尊氏に与えたことを記す「比志島文書」。尊氏は全国に多くの所領を得ますが、その一つが鎌倉に近い麻生郷だったそうです。

【ご参考】


麻生の由来

では、そんな「アサオ」の由来を掘り下げてみよう。
「アサオ」に限らず、「麻生」の一般的な由来は次のニつの説とされます。

地名転訛説
谷戸の急崖を「アズ、アス」と呼ぶことから、転訛したとのこと。


植物の麻由来説

麻生は 「麻の生(お)うる 地」という地名で、麻(=多分からむしというイラクサ科の植物)の自生が目立つ所だったの でしょう。また「麻織物の生産の多い所」というような解釈もできるかもしれません。
 奈良時代の律令制のもとで、庸や調の貢ぎ物として麻布が用いられ、地方にとっては大事な生産物だったのですが、その「麻布の沢山とれる地」というのが地名だとすれば「麻生」もかなり古くからのものだろうと推察されます。

麻生区


麻生の地形的考察

アズ・アスは「崖の崩れやすいような所」をいう古語で、古い字書には「坍」の字を当て「崩れ岸」の意としています。他には「阿須」や「明・明日」などのように、アスと呼ばれるものもあります。
また、アズはアゾともいって山岳語としても用いられ、谷筋が崩れて岩などが堆積しているような所のことを指すそうです。
【ご参考】 古語に基づく地名の若干 松尾俊郎

実際の地形を見てみる。

等高線がうねうねしている

明治後期の地図を見ると、細い谷戸が入り組んでいる様子が分かります。開析が進み、痩せ尾根が多く崩れ易い地形のようです。
これなら「アズ・アス」を由来と考える理由も分かります。

現在の地理院地図ではどうでしょう?

左:治水地形分類図、右:陰影図

右側の陰影図でみると、部分的に険しい山や谷が残っていますが、かなりのっぺりとしています。
左の図は現地形の成り立ちを示しています。これを見ると、多摩丘陵が切土(灰色)と盛り土(黄色に赤線)でかなり平滑化されているのが分かります。
それでも、台地や丘陵の周縁部には急斜面が残っているので、自転車で散策するにはかなりキツい場所です。


麻生の古代民俗的考察

さらに、民俗学的な視点からも考察してみます。下の資料では、中世以前から「麻生」が地域を表す言葉だった可能性を示唆しています。

そもそも麻のルーツは山野に自生する苧(からむし)でした。「むさ」は苧の古語といわれ、この繊維を織って着物にしたことから武蔵国は「むさの国(からむしの国)」との説もあり(古語拾遺)、古代、麻は貴重な、特に神事には欠かせない民俗的植物であったのです。

麻生の名の起源となる麻の栽培は、武蔵風土記稿によると「天武天皇の御世の天武元年(671年)、阿波の国より神職の一族忌部(いんべ)氏が都筑の地(早渕川流域)に渡来、苧麻を栽培し、麻布を朝廷に献上した説話」に始まりますが、この忌部氏の遠祖は古事記天岩窟の祭事を祀った神とされ、鶴見川流域に62社の杉山神社を建立、神事を併せ麻の栽培を奨めておりました。

麻苧あさおらを麻笥おけふすさに績まずとも 明日着せざめやいざせ小床に」

 これは天平勝宝7年(755年)万葉集の東歌に収められた、農民の妻が苧を詠んだ歌で、「麻糸を紡ぐ苧を桶いっぱい溜めても 明日着るのではないから 早く寝ましょう」の意です。当時の貧しい農民は野山に自生する苧を貯めての生活だったことが窺い知れ、そしてこの麻苧(あさお)の「苧」が後に麻生の地名に大きく関わってまいります。

柿生文化176「麻生の地名と麻生郷」(2024年1月追加)
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2022/10/f310d390321eba331371407adc464c42.pdf

稲作に不向きな、崩壊しやすい谷が多い土地。
古代の人々は、そのような土地でも育つ麻を植えて麻布を生産した。
地形由来か?植物由来か?ではなく、崩壊地形に生える植物が麻だったので、それを生活の糧にしてきた。そのように考えると自然なような気がします。


旧郷名から新区名に

昭和56年(1981年)、川崎市は多摩区から分離する新区の名称について区名選定委員会(28名)を設け、広く居住者から新区名の募集をしました。その結果は、柿生区とするもの4256通、百合区436通、山手区268通などで、麻生区としたものは僅か156通で、柿生区が応募総数の約60%を占め、麻生区は2%に過ぎませんでした。

新区名募集で寄せられた数で「麻生」は僅か2%。しかし、その歴史の古さから「柿生」を排して選ばれたようです。個人的には柿生区でも良いと思いますが、柿生村は明治22年に上・下麻生を含む8村が合併してできた村で、比較的に歴史が浅いのです。

公募したのに上位案が全く反映されないのは、悪名高い高輪ゲートウェイ駅のように、ありがちなケースなのですが…こと行政区の名前などに関しては、単なる多数決では無く、有識者を交え歴史を鑑みて、慎重に決めるのが良いと思います(ただし丁寧な説明は必要です)。

人気投票だと、キラキラネームやおふざけネームが上位に入り、取り返しがつかないことが起こりうる…と、最近の世情を見て思った次第です。


次回は、近隣の雰囲気良さげな神社を巡ります。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。