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下麻生亀井古墳群 鶴見川遺跡紀行(12)

長〜い階段の神秘的な神社に、静かに眠る古墳たち

前回からの続き。

正直、鶴見川サイクリングコースで稲荷前古墳群(市ヶ尾)まで行けたら、それだけで満足だったんです。
ママチャリで20㎞って罰ゲームだし、実際「これで十分!もう自転車で来ることはないだろう」って思ったんです、その時は。

でもグーグルマップで古墳を検索してたら、見つけちゃったんですよ。
長~い階段の神社に古墳があり、そこが「月読神社」という…

月読神社

早野川、真福寺川の合流点を超えると、鶴見川は大きく西にカーブしています。

左が鶴見川本川、右は麻生川

しばらく進むと島忠ホームズが見えて来ました。亀井橋を右折し、横浜上麻生道路を渡って、その先の小道にある柿の実幼稚園のお隣が…

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ほっそりした月っぽい社号碑


月読命(ツクヨミ)とは

イザナギが黄泉国から逃げ帰り、禊をした際に誕生した3貴子の一人。姉がアマテラス、弟がスサノオ。でも、長男なのに他の2人に比べて、あまり神話に出てこない。(ワシは月見草だからの…)

アマテラスが高天原、スサノオが海原を、ツクヨミは夜の食国(ヨルノヲスクニ)を治める。しかし、古事記と日本書紀ではスサノオとツクヨミの話が混同されている所もあり、その活躍がイマイチはっきりしない。
(トップアスリート末っ子理論は古事記にも?)

ギリシャ神話で言うところの冥王ハデスに当たるが、ゼウスに比べるとやはり影が薄い。
あちらの月の神様と言えば、アルテミス、セレネー、へカテーの3女神が有名。中でもエジプトの信仰が起源とされる女神ヘカテーは、冥界と関係が深い。月と豊穣、呪術や魔法、夜と暗闇、贖罪、出産を司っており、ツクヨミに似ている存在。月に対するオリエント的な考え方か?


月読神社の由緒

神社の名前は「ツキヨミ」らしい。

1534年(天文3年)に武蔵国都築郡麻生郷の領主小島佐渡守が、戦乱の中苦悩にあえぐ領民のため天下泰平五穀豊穣を祈願し、伊勢神宮皇大神宮の別宮(月讀宮)を勧請。亀井城(伝・亀井六郎築城)の東に創建したそうだ。

ちょうど北条早雲が台頭し、勢力範囲を広げていた時期。

他にも馴染みある神様(熊野社、神明社、稲荷社や八幡宮、なんなら杉山社も)がたくさんいるのに、月読社を選んだのがちょっと不思議。

ただ、月は暦と関係し、暦は農業と密接な関わりがあったので、農民に寄り添った神様なのでしょう。今も昔も地元の人々に愛されていています。
大正時代、一村一社令で近隣社と合社され「麻生神社」となりましたが、地元の人々の熱意で昭和8年に再び月読神社と改称されました。

神社は郷土のルーツを知る語り部 柿生文化76号
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka76.pdf

さあ、先に行こう!

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お隣が幼稚園がちょうどお迎えの時間帯

一の鳥居がお出迎え。

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真っ直ぐ長い参道が、裏山に続いています。

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ここからが本番、気合を入れて行こう!

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ニノ鳥居が見えて来たけど、まだまだ先。

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所々に平らな場所があるので、傾斜はそれほどでもないのかな?

いや、訂正…100mで20mも上ってる。

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探検村?子どもの頃の私が大喜びしそうな場所
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お約束の見返り階段図
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やっと、到着した。標高54m!

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月詠神社の境内


下麻生亀井古墳群

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お参り後、まずは1号墳のある裏参道へ…

1号墳

鳥居から40mほど進むと

参道の左側が盛り上がっている。

もう少し下ると、形が見えてきた。

円墳。墳径12m、高さ1.7m。

スライムの祠…?

何の祠だろう。ここが古墳だから置かれたのか?


2号墳

来た道を戻ると、フェンスの中に盛り上がりが見えた。

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円墳。東西径15m、南北径14m、高さ2.1mとのこと。

高い所から撮影してみたけど、木が茂っていてよく分からない。

ここからなら、マウントが分かる。

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探検村の看板の奥が2号墳

やはり古墳と山城を見に行くなら、冬に限る。


3号墳

参道の階段の右わきが古墳らしいけど…

微妙に盛り上がっている

平滑された上に、フェンスで分断されている。

円墳。径13m余り、高さ1.3mだそうです。

実は、この古墳の築造年代など、詳しいことが分かっていません。

陰影図でポコポコを観察してみた。

右から1、2、3号墳。実際の見た目と同じく、3号墳の跡だけは分からなかった。


古墳のある下麻生地域

ここは埋葬するには素晴らしい場所。
高台の上から眼下を望むと、右からは鶴見川、左からは真福寺川の流れ。その先に広がる氾濫低地。この地域を治めた有力者のお墓だったのだろうか?

津久井道にさまざまな道が交差する場所
麻生地区には道がいっぱい集まっています。

津久井道とそれに接続する横浜上麻生道路(日野往還)などなど。
これらの道は中世から近世に作られたものと思われますが、古代の頃から通行が盛んな地域だったのではないでしょうか?
古代の交通の要所、麻生。その地を支配していた一族が眠っていると想像するとワクワクします。

【ご参考】


亀井城?

家に帰って(半年以上経ってから)調べたところ、この神社の高台は「亀井城」という中世のお城で、神社の西側の台地が城のあった場所だと言われています。

確かに神社の西側には広い台地。標高差が20m超あるので、城壁として申し分なし。神社の裏参道や北側の谷戸から、城に出入りしていたのでしょうか。台地の両側から流れる川は、正に天然の水堀です。

城を築いたのは、亀井六郎重清と伝わります。

【ご参考】
柿生文化63号 亀井六郎 ~亀井の館~
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka63.pdf


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。