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早野横穴墓 鶴見川遺跡紀行(11)

天高く、馬肥ゆる早野

前回からの続きです。


鶴見川上流域

市ヶ尾高校を越えると道が細くなります。
未舗装部分が続いて、お尻が痛い。

しばらく行くと看板が見えて来ました。

なぜ、看板を正面から撮らないかというと、

場所で言うと、ここは鉄町周辺。
河口から26kmか…思えば遠くへ来たもんだ。

鏡のように映ってしまうから

もう少し行くと、川崎市麻生区に入ります。(上流を背に)左岸が川崎市、右岸が横浜市と東京都町田市という複雑な行政区分。

右が早野川

この先、小河川が次々と鶴見川に合流します。


早野聖地公園

横浜上麻生道路を一本内側に入った道。

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ストロベリーファームがあり、親子連れがいちご狩りを楽しんでいます。

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あ、忘れてました。昨年の春ごろに行った写真です

そのまま真っ直ぐ進むと、

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早野聖地公園です。

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ここの事務所の裏側、小高い丘の麓に横穴墓があるはずなんですけど、

フェンスに囲われていて、何も見えない…。

フェンスの脇から丘を望む

仕方がないので、裏側から丘を登ってみよう。

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周りはお墓ばかりなので、尾根筋を撮影。

高台から崖下を見てみる。

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結構急だ…

う〜ん、何も分からない。

テレビ番組ならボツになる案件だけど、「鶴見川流域の遺跡を下流から順番に巡る企画」なので、ここをスルーする訳にはいかない。

どうしよう。こういうときは……そうだ!ネット情報に頼ろう!


早野横穴墓

・概要

この横穴墓が発見された早野は、鶴見川の支流、谷本川の中流付近に位置しています。川崎市が墓地公園として建設している山林中の「七ツ池」付近から昭和47年(1972)に偶然に発見されました。
 発掘調査の結果、この横穴墓は副葬されていた土器(須恵器等)の年代から判断して、7世紀中葉に築かれたものであることがわかりました。
 早野横穴墓の最大の特徴は、横穴の奥壁等から線で刻んだ絵(線刻画)が認められたことです。奥壁中央には、太い眉毛とあご髭をたくわえた人物顔面が、そして、その下側には人物顔面と疾走する馬5頭が描かれ、うち1頭は、あきらかに人物が騎乗した状況を描いています。特に中央の人物顔面の表情は、男子埴輪や墨書人面土器に酷似していますので、この線刻画が後世の戯画でないことがわかります。
 では、これらの人物・馬の線刻画の背景をどのように考えたらよいのでしょうか。
 平安時代初期に編纂された『延喜式』には、武蔵国には馬を飼育し優駿を朝廷に献上するための御牧(みまき)が四か所あったと記され、その一つに石川の牧があげられています。早野と石川の牧が存在していたと推測される横浜市青葉区の元石川とは、直線距離にすれば3kmほどの地理的環境にあります。そこでこの横穴墓の被葬者としては、図柄から推測して、馬と関連した牧の管理者クラスが浮かび上がってきます。


・具体的な位置

「その他の土地規制」をチェックして、麻生区早野を選択。
「✖️」が記されている場所が横穴墓です。
この辺りの丘の麓には、数多くの横穴墓が見つかっているようです。


・内部の様子

Kosukeさんが2015年に撮影した内部の様子。

古墳巡り大先輩の「古墳なう」さんが、2018年に撮影した横穴墓外見。他にも、川崎市民ミュージアムに展示されている内部壁画レプリカと埋葬品を掲載。

う〜ん、もう仕方がない。崩落とかゲジゲジとか色々とムリそう。


線刻画と埋葬者の関係は?

もっと詳しく知りたいな〜と思っていたところ、ネットで凄い資料をゲットできた!
下記資料は、柿生郷土史料館カルチャーセミナーで使用されたレジュメ。

鶴見川流域史「鶴見川流域横穴墓に刻また絵は何を語る」
村田文夫(日本考古学協会員)

http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Seminar-53.pdf

私はセミナーを受講していませんが、レジュメの内容を参考に被葬者について類推してみることにしました。


・線刻画の意味するもの 

この周辺には線刻画を有する王禅寺白山横穴墓、町田市三輪町西谷戸横穴墓、横浜市緑区熊ヶ谷横穴墓が存在しています。いずれも人面画が描かれています。(レジュメp8〜10)

早野の線刻画には、馬が5頭と馬に乗っている人の姿が描かれています。

https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000121.html

どうやら被葬者は馬に関係しているようです。


・勅使牧

古代の都筑郡は馬の産地として有名でした。特に、早渕川流域の元石川周辺は石川牧として知られていました。

牧とは
牛馬を放牧し,その飼育・増殖を目的に設定された区域。
古代令制の官牧は,主として諸国の軍団に支給する馬を飼育したが,軍団制の崩壊で9世紀初めに再編成され,《延喜式》の規定では兵部省ひょうぶしょう所管で令制の官牧に由来する諸国牧(官牧)と,左右馬寮そうめりょう所管で皇室牛馬供給のための御牧みまき勅旨牧),貢上牛馬飼養のための近都牧きんとのまきの3種となる。
牛馬は年貢として貢進し,皇族・官人に支給された。9―10世紀ころから権門や地方豪族の私牧が増加し,公牧も私牧化,これらはのちに開発により荘園化していく。兵馬が重要視された中世には,牧は武士団発生の基盤となることが多く,江戸時代にも幕府・諸藩は公牧を設けて軍備のための良馬育成に努めた。

コトバンク

石川の牧
石川村から鴨志田村にかけて馬産地の「牧」が何カ所かあり、草競馬も盛んに行われていました。石川村の中に(現在の江田高校の東)直線コースで200mぐらいの競馬場があったそうで、また鴨志田の甲神社の西側には今でも観覧席の格好の地形が残り、ここで競馬が第2次世界大戦前まで行われたと言われています。
鎌倉時代、源頼朝の名馬(するすみ)と畠山重忠の名馬(三日月)もこの石川村から献上され、先祖代々から伝えられる話だといいます


・早野が牧であった可能性

早野が牧であった可能性は、地名からも窺えます。

早野の地名の由来
はっきりはしないそうですが、いくつかの説が唱えられています。

・土地の貧しさから稗が育てられており、「ヒエノ」から転じたとする説
当地が勅旨牧である「石川牧」に当たり、「駿馬の駆ける野原」に由来する説
・平野から「ヘエノ」→「ハヤノ」と転じたとする説

麻生区

「早馬が駆ける野原=ハヤノ」ちょっと安直な気もしますが…


「籠(ロウ)地名=谷戸」の土地利用 
以前、牢尻台遺跡の記事で、籠(ロウ)地名は谷戸を表すとお話ししました。
下の川崎市の資料でも、そのことが書かれています。

川崎の谷戸地名
関東地域には谷・谷戸地名が数多くある。ヤトは重要な指標である。ヤトがあるところは必ず川が存在し、崖を含む傾斜地が存在する。その地を崖と言わず谷戸というのはそこに生活する人々とどのように結びついているかに関係する。
ヤトの意味はヤチ(谷地)が元だと考えられている。ヤチはアイヌ語で湿地や湿地で育つ植物ヤチボウズとして紹介されている。植物が寒い気候で腐らずに湿地の中に堆積して泥炭層を形成した。その湿った土地をヤチと呼んだ。ヤチが一般的になり、地域的にヤトやヤツと呼ばれるようになった。
ヤトと共通の地形としてクボやウバ、カマ、ロウなどが挙げられる。
クボは窪・久保、ウバは姥ヶ懐・姥ヶ森、カマは釜・鎌・竃・蒲、ロウは牢場・籠場・狼谷などと記載している。

地名が教える地形の歴史 川崎の地形から見た災害地名や崩壊地名

袋状になった谷戸地、すなわちロウで馬が飼育されていたのではないかと考えられています。鶴見川流域ににはこのような地形は多く、都筑郡から多摩郡にかけては、老馬、籠馬、籠場などのロウ地名が残っています。

村田氏のレジュメ(p11〜15)でも、南武蔵の都筑郡、橘樹郡に「ロウ地名かつ谷戸地形」の場所が複数あると指摘されています。麻生区では籠口ノ池の地名が残っています。(池は江戸時代に灌漑用に造られ、元は谷戸だと思われる)


地形を利用した馬の生産と飼育、管理で力をつける?
大昔、夏に間は野に馬を放ち、冬場は森に集めて寒さをしのぐ自由放牧が盛んでした。しかし、氾濫低地が水田開発されるにつれて馬の食害が問題となり、谷戸の開口部にませ垣を作って、馬を囲って飼育するようになったそうです。

(奈良時代の)牧の位置
前時代からこの期にかけて,牧は多く川畔や島に設けられた。川畔に拡がる氾濫原は水辺に近く、氾濫が反復して地味が肥沃であるから草生がよいなど,放牧地にはおあつらいむきである。そこは氾濫が耕作の障害になって開発が他よりおくれ,川畔に広い草地が所在した。

(平安時代の放牧)川谷を利用した牧 
或る谷筋についてみると,谷の出口の狭隘部を塞ぐと,奥の広い谷間がよい牧になるような所がある.(中略)谷底にある低い段丘や氾濫原が,それに接する緩傾斜の丘陵と共に,牧に利用された例は多数ある.武蔵の由比・立野,信濃の平井手・宮所,上野の利刈・市代・拝志・長野,伯耆の古布などはそれである.由比は八王子市南方多摩丘陵内にあり,浅川の支流湯殿川の谷に所在した。立野も同じく多摩丘陵内にありて,横浜市の鶴見川の谷に所在したと想定されている.

古代における日本の放牧に関する地理歴史的考察

これらのことを総合すると…
律令制が緩み始めた時期、中央から派遣された国司や地元の豪族らが、菅牧や御牧を私有化したり、新たに私牧を作ったりして富を蓄えました。周辺の王禅寺白山横穴墓、町田市三輪町西谷戸横穴墓、横浜市緑区熊ヶ谷横穴墓の被葬者も、そのような国司や豪族から牧の管理を任されていた有力者一族では無いでしょうか?

【ご参考】
柿生中学の考古学部のページ
「古墳から奈良時代の柿生」「鎌倉武士の墓に使われた横穴古墳」

中学校の部活動で地域史の研究をしていたのですね。
ネット上で研究内容を公開し、その成果が今も残っているのが素晴らしいです。

柿生文化172「早野横穴墓の線刻画と、馬の調教を連想させる地名など」http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2022/10/f7cac2f77062b743c80a866d029285b1.pdf

植物学からのアプローチ

今度は、違う視点から牧について迫ります。
最近、日本草地学会の興味深い論文を見つけました。

古代馬牧 一 河内,信濃16牧の立地と馬産供用限定地への発展 早川康夫https://www.jstage.jst.go.jp/article/grass/41/2/41_KJ00004621964/_pdf

この論文は、日本の放牧野草地の植生の遷移について述べています。

私が気になったキーワードが、チガヤ
そう、あの茅ケ崎(都筑区)の茅です。「茅ケ崎の由来は、チガヤがたくさん生えていたから」とはまれぽさんに書いてあった!

チガヤやススキは、共に乾性の水はけのよい場所で生えるが、チガヤはススキに比べて地力の劣る場所でも良く育つ。
さらに、チガヤは生長点が地際まで下がるため、馬が食い込んでも草が再生しやすく、放牧圧(単位面積あたりの馬の数≒馬が食べる草の量)に耐えられるらしい。

鶴見川上流域は平地が少ない上、度々氾濫が起こるので安定した稲作収量も期待できない地域。しかも、丘陵地が多く開墾も難しい。
また、台地や丘陵の尾根では水の確保も難しいので、乾性草植物しか生えない。そんな弱点を逆手に取って、チガヤなどの野草が生い茂る草原を利用した産業が、馬を飼育する牧でした。


もう一つの論文には、牧をどのように作ったかが述べられています。

多摩川流域における過去1万6000年間の植生変遷
https://www.nature-kawasaki.jp/pdf/kiyou/kiyou10/kiyou10all.pdf

多くの献上馬を育てるには広大な野草地が必要なので、森林(広葉樹)を伐採し、野焼きを行って草原を作ったと考えられています。森林からチガヤやススキへの遷移は人為的と考えるのが自然です。

また、論文には、杉が優勢になった時期があるとも書かれています。低湿地から丘陵の周縁部に広がったと見られています。

はて、ここで杉とは…またまた引っかかる。

馬の生産は、渡来人がもたらしたと言われている。
馬を飼育するために、森を開いて草原を作った。
その後成長の速い杉が自生し、杉林に遷移したとも考えられるが、
何かの意図があって人為的に杉を植えた可能性も…?

映画「もののけ姫」。
あの話は、縄文的な民(森の中で採取生活を送る)と弥生的な民(製鉄と稲作で森を開墾する)の衝突を描いている。タタラ製鉄には多くの燃料が必要で、森林が次々と伐採された。残った丘は草原化し、弥生の民の管理下に置かれた。

しかし、それは製鉄目的だけだったとは限らない。
牧草地のためにも、多くの森林が切り開かれた可能性がある。

その際に、人々が管理できる森林資源として、成長が速く、真っ直ぐで柔らかく加工しやすい杉を植えたとは考えられないだろうか?

または、涵養地を作る目的として植えられた可能性はどうか?
台地の上や丘陵の緩やかな尾根が草原化すれば、当然、雨水はダイレクトに斜面を流れ落ちて低地を襲う。また、十分な涵養林が無ければ谷川や小さな沢が枯れてしまい、この地域の稲作にも影響があったかも知れない。

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天から追放されたスサノオは新羅に下った後、出雲に戻ってくる。
その時、スサノオは製鉄や産馬の技術を持ち帰った(渡来人から技術がもたらされた比喩)のではないだろうか。

スサノオのあご髭が杉となり、それを各地に植えたのが五十猛命。
そう。あの杉山神社の主祭神だ。彼らは、製鉄や牧草地で失われた森林を杉で補うことを奨励していたのだろうか。

とすると、杉山神社に対する視線も、これまでとは変わってくるかも知れない。
(あくまでも妄想の範疇です)


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牧を所有した豪族や国司、有力農民たちは、その後、荘園を管理する武装集団となります。連携や吸収を経て武士団(党)へと成長し、やがて時代は中世を迎えます。


次は下麻生の古墳を巡ります。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。