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杉山神社・事始め

ハァ〜♪ 社務所もねぇ!御神籤もねぇ!賽銭箱も見たことねぇ!
丘の上、崖の下、森の中にしか建ってない!
(吉幾三「オラ東京さいぐだぁ」のメロディで)

そんな替え歌がピッタリな鶴見川水系にしか存在しない超ローカルでマイナーな杉山神社。古墳散策で出会った愛すべき神社をこのマガジンでまとめていきたいと思います。

杉山神社とは

現在、主に鶴見川水系流域に49社もあり、他の地域には存在しない

新編武蔵風土記稿(幕府が1810〜28年にかけて編纂した地誌)には、橘樹郡37社、都筑郡25社、南多摩郡6社、久良岐郡5社の計73社の杉山神社が記載。その多くは、鎌倉から室町時代には祀られていたと思われる。

杉山神社が歴史に登場したのは続日本後紀(869年)。「承和五年(838年)二月庚戌(22日)、武蔵国都筑郡枌(杉)山神社、官幣に預かる、霊験を以てなり。」(都筑郡の杉山神社が朝廷[神祇官]から幣帛[お供え物]を捧げられた、それは杉山神社が霊験のいちじるしい神社だからである)とある。

延喜式神名帳(927年、官社に指定された全国の神社一覧)にも記載された由緒ある神社である。


なぜ、こんなに多いのか?

杉山神社増加の要因は2つの説がある。

古代、鶴見川流域に入植・定着したある氏族が祀っていた氏神であり、一族の勢力拡大に伴って流域各所に末社がつくられた。
中世、各地の小土豪が統合する際にその中心となった土豪が祀っていた氏神であり、他の土豪が祀っていた氏神も杉山神社の名に統一された。

いずれにせよ、式内社(延喜式に掲載された神社)を中心として鶴見川流域に拡散したと見られる。

祭神は各社まちまちだが、日本武尊か五十猛命が祀られていることが多い。日本武尊東征の神話から、五十猛命木材の守護神であることから祀られたと思われる。こうした祭神が祀られたのは明治初頭のことらしく、元来は杉の巨木を神聖視した原始的な自然崇拝から発生したものと考えられる。

綱島から樽・師岡・大倉山(公財・大倉精神文化研究所)より要約

【ご参考】
はまれぽさんによる杉山神社のイントロダクション的記事です。


杉山神社の謎

杉山神社には多くの謎がありますが、ザクッと4つに絞りました。

その一、誰が作ったか?

杉山神社創建と初期の拡大は、鶴見川流域に入植した古代の氏族によるものと思います。では、その氏族は一体誰でしょう?

阿波忌部氏の一派が東遷し、拠点の千葉の安房から鶴見川流域にも入植。杉山神社茅ケ崎社には「(安房神社神主)忌部勝麻呂が天武天皇御宇の白鳳三年秋九月、神託によりて武蔵国杉山の地に太祖高御産巣日大神、天火和志命、由布津主命三柱の神を祀り杉山神社と號す」(新編武蔵風土記稿)との言い伝えが残っており、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに流域に神社も広まったと考えられている。

❷五十猛命が出雲系氏族の氏神であることから、出雲系がこの地域に影響を及ぼしたと考えられる。彼らの入植ルートは大きく2つに分かれる。
①信濃→甲斐→南武蔵、または信濃→上野・下野→武蔵
(出雲系は北関東で勢力を誇りヤマト王権と対立。武蔵とも関係が深い)
②出雲系氏族が紀州より海人族を引き連れ→伊豆半島・三浦半島→鶴見川水系へ(相模と都筑には同じ地名がある。茅ヶ崎、鴨居)
【ご参考】昭島市史「古代武蔵国の住民と武蔵野の開拓者

※(中央)忌部氏は出雲、紀州、阿波の地に関連があり(品部があった)、各地の一族や関係のあった氏族と共に行動していたと思われるので、❶と❷の説が交わりあっていた可能性もあるのでは…。

そのニ、誰が広めたか?

中世になると、土豪が連合する地域の結束を図るため杉山神社を域内に広め、地域インフラとして寺社を建立して郷村支配に利用したと考えられます。小机衆などの武士団の関与も考えられ、鎌倉〜室町だけでなく戦国〜江戸時代初期まで建立が続けられたと考えます。


その三、どこが総本社か?

杉山神社の総本社(延喜式に記されている式内社)の有力候補を論社と言い、今のところ6社ほど挙げられています。
①西八朔社(緑区西八朔町)
②大棚社(都筑区中川町)
③茅ヶ崎社(都筑区茅ヶ崎町)
④吉田社(港北区新吉田町)
この他にも町田市三輪の椙山神社、鶴見区の鶴見神社(合祀)保土ヶ谷区の星川杉山神社が論社の一つと見られています。


その四、御祭神がいろいろ問題

同名神社なのに祭神は各社バラバラです。大昔、その土地の良さそうな場所に、その土地の神様を祀ったから、そのようになったのかも知れません。基本的には暴れ川だった鶴見川の鎮護を祈ったのだと思います。
天照大神や日本武尊は明治以降の天皇制強化で後付けされたものと思われ、五十猛命は林業の神様なので地域産業の神とも考えられます。五十猛命が祀られた時期については、古い時代の可能性はあると思います。「鉄の神(日本武尊)と林業の神(五十猛命)を一緒に祀っていたのは鶴見川流域に製鉄技術があった証」と考える地元歴史研究家もいるようです。


杉山神社の魅力とは

何と言っても、杉山神社の特徴は

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高いところにあり、(北新羽総鎮守杉山神社)

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長い階段を持ち、(吉田杉山神社)

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大きく高くそびえる木々がある。(池辺杉山神社)

まとめると「男の子と女の子が一緒に転げ落ちたら互いが入れ替わるくらい長〜い階段のある、木々が鬱蒼とした雰囲気のよい神社」です。


杉山神社の役割

最近、杉山神社には別に役割があったと考えるようになりました。
と言うのも、近年、寺社の立地と過去の災害箇所との関係性が研究されるようになり、神社の役割についてつい新たな視点が加わったからです。

❶ 災害の記憶を留める役割があった。
❷ 災害時の避難場所や行政代行機能があった。

【ご参考】
寺院の津波避難場所としての役割に関する考察(後藤ほか 土木学会論文集)
水害対応と信仰の歴史(蓮田市教育委)

つまり、川沿いや崖近くに作られた簡易な祠や道祖神は「もう二度と災害が起こらないように」と祈りつつも「ここな危ないよ」と危険を知らせる警告碑のような役割があり、高台にある神社には「万が一の時には神社を目指して逃げなさい」という役割があったのではないでしょうか。

和歌山県の神社に関する研究で、杉山神社でも多くの祭神になっている五十猛を祀る神社について、次のように記されています。

イソタケル系神社は津波および土砂災害に対して、そのリスクを回避しうる空間特性を有していると考えることができる。特に、他の神社に比べて土砂災害に対するリスクが低いのは、前述したように、イソタケルが植林に深くかかわる神だからであり、そのような神を祀る場合には、人びとは山地での災害リスクを回避しうる場所を選定していたと考えることができる

由緒および信仰的意義に着目した神社空間の自然災害リスクに関する研究 (田中、桑子)


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note内の杉山神社関連の記事をリンクします。

杉山神社・茅ケ崎社

杉山神社にハマったきっかけです。茅ケ崎社は式内社最有力候補の一つ。
この記事を書いたときは、かなり阿波忌部氏推しでした。

マガジンはこちらから↓


武蔵國久良岐郡の杉山神社

横浜のことなら何でも詳しいはまれぽさんが、既に久良岐郡内の杉山神社についてレポートされています。


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トップ画像は最有力論社の西八朔杉山神社。
こちらは、いずれ恩田川遺跡紀行(予定)で取り上げるつもりです。

神社について熱く語っていますが、私、本人的には無宗教。信じるとしたら自然の摂理のみ。パワーストーン、パワースポットのオカルト関係に興味無し。たぶん縄文人と同じで「山河を崇める」タイプです。

そんな私がハマる杉山神社。おみくじも御朱印も無いけれど、里山的な自然の中で落ち着いた気持ちになれること間違いなし。お近くに杉山神社があるなら、ぜひ一度訪れてみてください。



オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。