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小机城址② 鶴見川遺跡紀行(5)

小机城と狼煙のネットワーク?

前回の続き



小机城の重要性

長尾景春の乱から数十年後、北条氏勢力下に入った小机城は改修され、現在の形になったそうです。北条氏綱(2代目)は、その城主に重臣の笠原信為を配置。その後、小机城の重要性が高まったのか、北条氏が城主として入城し、笠原氏は城代として南武蔵一帯の防衛を担います。

まずは、小机城の重要性をまとめました。

その1 水運、陸運に恵まれ、物流に役立つ。
    鶴見川の水運(神奈川湊に近い)
    中原街道や矢倉沢往還(厚木街道)に接続しやすい
その2 武田との最前線(八王子城・津久井城)
    上杉との最前線(江戸城・葛西城)
    上記2拠点を支援できる位置にあった。
その3 北条軍の北関東進出の足掛かりとなる。
その4 狼煙の中継点 

将棋で例えるなら、前線の歩が取られないように1段下で支えている金や銀の働きに近いイメージか。


狼煙の中継点

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北条氏の拠点城の分布図(今昔マップさんで作成)

小机城は、北条氏勢力圏の支城・江戸城から本拠地小田原城への狼煙の中継拠点の役割を担っていたそうです。当時、甲斐の武田氏と北関東の上杉氏と対峙していた北条氏は双方から挟撃されることを恐れて、有事のために情報ネットワークを敷いていたと考えられています。

下のリンクは、戦国時代の関東の勢力図の移り変わりを示しています。
「勢力拡大するほどに小田原城が領地の端っこになる」という北条氏が抱える矛盾が見えてきます。

しかし、江戸城から小机城までは24km、次の拠点玉縄城(鎌倉市)まで20km。玉縄城から小田原城はさらに35kmと離れている。

そんなに遠くまで狼煙は届くのだろうか…?


狼煙の伝達距離は?

調べてみると、三重大学で狼煙を研究していることが分かった。

この記事では、狼煙の視認可能距離は最大でも10km。

こちらの記事では300kmを60ヶ所経由して2時間で伝達していたそうだ。よって、単純計算で5kmの距離。

幕末高松藩の海防施設-狼煙場群を中心として-(古野 徳久)
この文献の表6によると、狼煙台間の距離は1.8〜6.6km。周囲の地形によって、距離が変わるようだ。

とすると、北条氏の狼煙ネットワークでも、各拠点の間には複数の中継地点があったはず。一体、どのようなルートで伝達したのだろう?


狼煙の燃材料

狼煙ルートを調べる前に、狼煙をどうやって上げるかを調べてみた。

狼煙の燃料
三重大学の研究内容です。

のろしの材料は忍術書「万川集海」などにヨモギ、藁、松、杉、ヒノキ、オオカミの糞と記載されている。常緑樹の松、ヒノキ、杉は可燃性の油分を含み、含水率は50%程度と共通した特徴がある。含水率は白い煙を発生させる重要な因子。材料がたちまち燃えてしまうと、のろしの意味がなく、「長くくすぶる」状態が必要だ。
 私は、山開きの儀式で煙が薄くなると、のろし台に水をかけて煙の濃度を上げる山伏の姿をしばしば目撃した。ヨモギや藁は乾燥したものを使うが、藁には着火剤のような効果が期待できる。(中略)
 実験で煙を出すには生木で1キロもあれば十分だ。しかし、煙を実際に約15分間上げるだけでも、相当量の材料が必要となる。とても忍者が携帯できる量ではない。(上記リンク先より抜粋)

狼煙を長くくすぶらせるには、水分量の多い生木が必要そう。

本格的な炉台から上げる狼煙のレシピ

こちらの記事によると、火立場や狼煙場で狼煙をあげる場合の処方は、

一、 狼糞1升(但1度分)
一、 煙草茎1把(但1尺廻り)
一、 焰硝200目壼に入(1度分56匁)
一、 鉄砲明薬200目(但1度分56匁)
一、 肥松15貫目 
一、 摺ぬか3俵(五斗入但穴の底に敷松葉ヒササキの間撃)
一、 青松葉ヒササ木(但山に有之に付兼て用意に及ばず)
一、 小鍋1枚

【現代語訳】狼糞(または乾燥家畜糞?)約1.8L、煙草の茎1把(30cm長?)、焰硝(硝石=硝酸カリウムを含んだ黒色火薬)210g、鉄砲明薬(?)210g、肥松(灯火用の樹脂の多いマツの割り木)56.25kg、摺ぬか(もみ殻)3俵(9L×3)、青松葉ヒササ木(現地調達)

まとめてみると
材料は炉台の形式や大きさにもよりますが、下の通り。

着火剤 家畜糞、火薬 
助燃剤 藁やもみ殻、
主燃料 松(割り木)ヒノキ、杉
煙を発生 青松葉、杉の葉

しかも主燃料の木は、かなりの量を必要とします。


狼煙台の形式

(勝手に命名したので正式な分類とかではないです)

かがり火型

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設備投資が不要の一番シンプルな形。発展形には長い竿の先に籠を付けたタイプもあり、てこの原理で上に掲げているようだ。
事前に燃料となる枝葉を縄でまとめておかないと、燃焼中に崩れそう。風の影響を受けやすいので煙の安定性は低いかもしれない。

筒型

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煙突のような構造は、煙を真っ直ぐに立ち上げるのに適している。燃料の追加も簡単なので、長く安定した煙を出し続けそう。
現代の狼煙はドラム缶で行われることも多いようですが、戦国時代には狼煙用に金属製の筒があったのだろうか?

手筒花火の原型は狼煙との言い伝えもあるので、短距離用として竹筒を利用するタイプはあったかも知れない。
【ご参考】豊橋の手筒花火

炉台型

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【ご参考】幕末高松藩の海防施設-狼煙場群を中心として-(古野 徳久)

本格的な設備なので大きな城に常設されるタイプか?
三重県伊賀市の狼煙台は直径は約2~4メートル、周囲を土塁で囲んでいるとのこと。燃料を投入して燃やすだけなので、素早く安定した長距離用の狼煙も上げられそうだ。


狼煙ネットワーク

いよいよ、狼煙ルートを調べるぞ!

Wikipediaによると、小机城は江戸城からの狼煙を次のようなルートで伝えていて、その主な経路として中原街道を使用したそうだ。(出典は不明)
①青木城から玉縄城へ
②八王子方面と本拠地小田原城

①は海沿いの支城への連絡ルートか?
青木城は神奈川湊を管轄する拠点。玉縄城は鎌倉と三浦半島を管轄する拠点。海沿いには三浦水軍などの支城があるので、玉縄城ルートは水軍への連絡ルートだったか?玉縄城は標高が高いので(79m)、丘陵の多い地域でも狼煙を認知するのに適していたのかも知れない。

②−1小田原城へは最短距離で伝えたか?
玉縄城まで狼煙リレーするなら、そこから海岸沿いに小田原城に伝えればいいのに…と思いますが、小田原には何処よりも早く情報を伝えるの必要性があったようで、ルートは最短距離の中原街道を経由したと想定か?
そもそも中原街道は、北条氏が領地を守るため本格的に整備したもので、直線的になるよう作られていたらしい。

②−2八王子方面には途中で分岐してリレーしたか?
当時、北条氏の最大の敵は甲斐・武田氏。上杉氏との争いに乗じて侵攻されたら脅威なので、八王子へのリレーは優先度が高かったと思われる。
中原街道の途中で分岐して北上するルートがあったとすれば、どこで分岐したのだろう…。

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北条氏の情報伝達ルート推測図(机上の空論です)


ルートを推測

江戸城〜多摩川
江戸城から多摩川までのルートは全く分からない。奥沢城とか馬込城は北条方の城ではあるが…江戸時代に廃城されたり情報が上書きされたりで、目まぐるしく変わる戦乱期のことなど伝わらなかったのかも知れない?

多摩川〜小机城
多摩川越えの場所が問題。
中原街道沿いであれば、井田城→茅ヶ崎城経由が有力。しかし、井田城と茅ヶ崎城さらに小机城の間にそれぞれ台地が横たわり視野を遮っている。個人的に、このルートが狼煙リレーに適していたとは思えない。
【ご参考】見えるか見えないか?中世のお城(横浜市歴史博物館)

私の推薦ルートは次の通り。慶応大学日吉キャンパス近くに小机衆・中田加賀守が護る矢上城がある。多摩川を見渡せる高台なので、ここが江戸方面からの中継地点だった可能性はある。
さらに、太尾見晴らしの丘公園(前記事参照)の近くには大曽根砦がある。公園内にある鉄塔付近は標高が高く(50m)、場所も矢上城と小机城の直線上に位置している。他にも北条氏の支城・篠原城があり、いずれかが経由され小机城へリレーしたか?

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小机城〜小田原ルート
小机城から佐江戸城、そこから中原街道沿いに進んだか?
しかし、相模原台地上の「伝えの城」の手がかりが全くない。城よりも見張り用砦のような簡単な設備だったのか。
さらに相模平野に入ってからは、寒川→平塚→二宮と進んだか?

八王子方面
中原街道を用田で分岐して相模川沿いに座間→橋本か?または、その手前の八王子道で分岐したか?それ以外にも、国府→厚木から山沿いに進むルートも考えられなくはない。
しかし、この近辺も狼煙の中継点に関する資料は見つからない。

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神奈川県の脇街道(国土交通省関東整備局より)


武田氏との境界では狼煙大活躍
武田氏との国境(現在の相模原市の山地)には烽火台が多数存在し、運用されていたと記録がある。山間部は人馬の移動では時間がかかるので、尾根(峠)上、山頂、山城などから、武田軍に動きがあれば狼煙を上げて伝えていたようだ。


【悲報】狼煙ネットワーク否定説を発見

しかしながら、調べれば調べるほどに不可解な点が…。

神奈川県内にはたくさんの中世の城があるが、鎌倉時代や戦国時代初期(上杉方)の城だったりで、北条氏が使った記録のない城も多い。それに、記録が残る時代だったにもかかわらず、狼煙ネットワークに関する古文書資料や研究論文も見当たらない。

おかしい…と色々ネット上で検索していたところ、ここまでの4000字分の努力を無にするような衝撃的論説を目にしてしまいました。

城郭ネットワークの幻想
西股総生氏は、NHK大河ドラマ「真田丸」で軍事考証を務めた著名な城郭・戦国史研究者。氏の主張を著書から抜粋要約すると次の通り。

・領国内の城は全てが常に使用されていたのではなく、支配が安定するとその多くが放棄される。地図上に残っている城が、同時期に活動していた訳ではない。
・後方地域の領主は輪番制で隣国との前線に送り込まれるので、自分の地域に狼煙用の城を構えて維持をすることが、人的にも財政的にも困難。
・隣国との前線には大小の支城が集中し、その背後には広大な城の真空地帯が広がっていた。
・北条氏が恒常的に狼煙ネットワークを構築していたなら、運用のための標準仕様書が存在するはずだが、見つかっていない。

「土の城指南」 西股総生 著(Google Booksで部分閲覧可)
■城郭ネットワーク幻想 ■築城の「標準仕様」?の章より 

言われてみれば…納得する話。
西股氏は「単発の狼煙リレーの可能性はあるが、恒常的な狼煙ネットワークはなかったのではないか」と考えている。


どうしよう?
西股さんの説を見なかったことにして、
しれっと「狼煙のルートは謎のまま!」で
終わらせようか‥‥‥


いや、いけない。冷静になってみよう。

小机城も小田原征伐の際は、既に廃城になっていた可能性も伝えられている。小机城が情報網の中継拠点であったのは、北関東を上杉氏が支配していた1520〜1530年ぐらいの年代のことだったかもしれない。
(最前線に近かった時期に狼煙を使っていた可能性はあるかも)

他にも…
ある歴史研究家が「狼煙に金属の炎色反応で色付けして情報を伝えた可能性がある」的なことを言っていて、ハァ?と思ったのですよ。
(炎色反応は炎が色づくが煙は出ない。カラースモークは煙への塗料吹き付けなどにより着色する)

さらに…
平坦地では狼煙が見づらい上に、炊事や野焼きの煙と見分けがつきにくい。また、狼煙は水分量の多い生木を燃やすので、発煙までに時間がかかる。
5kmくらいの距離なら早馬を飛ばした方が、早く詳しい情報が伝えられる。

伝えられる情報量が少なく、平坦地ではさほど効率的でない狼煙ネットワークを、わざわざコストをかけて構築したのかどうか?

つまり私を含めて、みんな狼煙にロマンを求め過ぎ!

局地的に行われていた狼煙の話に、地図上の城の数から推測した空論を混ぜ合わせて肥大化させてしまったのか?


自分で自分の話の腰を折ってしまった。どうやって次回に話をつなげよう…
(一応、次回は小机衆のことを取り上げる予定)



オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。