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鐵神社の話 ふたたび

気になる名前のあの神社の後方には…実は!

と書いて「くろがね」と呼ぶ鶴見川上流の町。
この地には鐵(くろがね)神社というカッコイイ名前の神社があり、しかも、その前身が杉山神社(杉山明神)という…

前回は「くろがね」という地名の由来にフォーカスして記事を書きました。今回は、ひょんなことからゲットした情報を元に、再度、鐵神社について迫ります。


学園内の古墳?

最近、鉄町にある桐蔭学園高校出身の若者と話す機会がありました。同校は文武両道の校風で、ラグビーとサッカー、野球は全国レベル。卒業生には高橋由伸氏、直近ではフランスW杯ラグビー日本代表のスクラムハーフ齋藤直人氏などの有名選手が名を連ねます。

その若者との会話で、衝撃の事実が判明しました。

若者:桐蔭学園は長閑な場所で、市ヶ尾駅からバスで通っていました。
私 :
確か、鐵神社の所ですよね。
若者:
よくご存知ですね。
   あのバスロータリーの奥にある、古墳を切り拓いて造った学校なんです
私 :!!!

桐蔭学園前バスロータリー

古墳を切り拓いて造った学校…

古墳を切り拓いて…

古墳!? 

・・・

なぁにぃ〜? (やっちまったなぁ!)

鉄町に古墳があったの?
いや、前の記事の時にも色々調べたけど、古墳なんて1ミリも出て来なかった。確かに、黒須田川の対岸には稲荷前古墳群があるし、古墳があっても不思議では無いけど…

再度ネットで検索。すると、同学園OB会のFacebookがヒットした。学園内のホール完成時の航空写真が掲載されていて、「ホール右側の木が生い茂っている小さな丘が古墳です」との表記が!

やっぱり古墳はあったのか…
しかし、残念ながら、国会図書館や遺跡関係のサイトで調べても、遺跡調査報告などは見当たらず、これ以上の情報は無し。

最後の砦、横浜市埋蔵文化財包蔵地マップで確認。すると、学園近辺に時代区分「縄文・弥生・古墳」などの包蔵地が表示されていた。ただ、古墳自体の表示は見当たらない。うーん。


地理院地図で確認

こうなったら、地理院地図の年代別航空写真を見てみよう。あわよくば、大塚遺跡のように発掘調査中の写真が写っているかも?

2019

ホールの隣の木が茂った場所が古墳とのこと。「古墳を切り拓いて」という表現からすると、古墳がこの1基だけならやや大げさな話となってしまう。

1979〜1983

敷地造成中の頃。まだホールが建っていない。あの古墳だけが残されている。

1961〜1969ごろ

神社後方は畑になっていて、周縁には木立ちがある。そこに他の古墳もあったのだろうか?他にも、神社の西側の畑の中に点々と木立ちがある。あれも古墳だったのだろうか?

航空写真は高低差が分かりにくいので、色別標高図を重ねてみよう。

色別標高図は現在の平滑化された後の標高を示す

神社後方は高台になっている。神社境内の標高45m(比高は25mほど)、学園中央のグラウンドが標高57m。丘陵が神社を囲むようにカーブを描いている。

明治初期には、既に鐵神社の後方は畑だった

「古墳を切り拓いて」という表現は「複数の古墳があった場所を平らにした」の意味だと思うのだが…果たして、これは学内で語り継がれていた内容なのか?それとも、今も残る1基の古墳からとっさに出てきた言葉だったのか?

知りたい…とっても知りたい!


鐵神社近くの古墳が気になる訳

学園内の小さな古墳が、どうしてそんなに気になるのかって?

確かに、この地域に古墳があっても全く不思議ではありません。ただ、鐵神社の近くに古墳があったとなると、話は別なんです!


鐵神社について

改めて鐵神社のご説明を。
創建は不明。神奈川県神社誌によると戦国時代の天文年間(1533年-1555年)に勧請と伝えられる。主祭神は伊弉諾尊、五十猛命。

新編武蔵風土記稿の中鐵村の条に「青木明神・杉山明神*合社」の記載があり、五十猛命は杉山神社の主祭神である。明治初年(1868年)、上・中・下の鐵村3ヶ村が合併した際、現社名に改称。町の総鎮守として親しまれる。
(*「明神」は仏教側から見た神の尊称で、実質的には神社と同じ)

この2社の元々の場所や、どちらの社地に合祀されたのかなど、合祀の過程は伝承されていません。


気になる杉山神社

鐵神社の前身である杉山神社についても、ご説明を。
杉山神社は、鶴見川流域に現在も40社近く分布するローカル神社。しかし、侮ること無かれ。かの延喜式に記載された由緒正しき式内社なのである。祭神は社によって様々だが、多くは五十猛命を奉じている。

ここで杉山神社の話をイチから始めると軽く10,000字を超えるので、詳しく知りたい方はこちらの記事と付随するマガジンをご参照ください。


どこが式内社?問題

杉山社に関するもっぱらの話題は、一体どこの社が杉山神社の総本社(式内社として掲載された社)なのかと言うこと。その謎をめぐって、江戸時代から現在まで論争が繰り広げられている。

延喜式に記載されたものの、杉山社はその後廃れてしまう。しかし、中世になり、土着の武士団が衆参離合を繰り返す中、鶴見川流域とその周辺で拡大。有力な土豪が自らの氏神として広め、それに周辺の村々があやかろうとしたと考えらえる。

江戸時代中頃になると、各村々が自らのアイデンティティをかけて「おらが村の杉山神社が式内社!」運動を展開。これまでにも複数の社が式内社候補として名乗りを上げているが、なにせ延喜式は平安時代の話なので、どこにも決定的な証拠残っていない。


合祀された青木明神とは?

念のため、合祀されている青木明神を調べよう。
青木明神で検索すると仙台に1社のみだったので、青木神社で調べることに。すると、横浜市内に2社、港南区と栄区に存在した。

主祭神は久々能智神(ククチノカミ)で木の神様。創建年代は不明。

主祭神は天手力雄命(アメノタヂカラオ)他。タヂカラオは天の岩戸をこじ開けた神様。建武2年(1335年)の創建。

両社とも鐵神社とはやや離れた場所にあり、ご祭神もバラバラ。笠間の青木神社は創建が古いけど、熊野社や八幡社のように勢力のある神社とは言い難い。


超私説! 鐵神社だって杉山神社の式内社候補?

私は、鶴見川流域に勢力を誇っていた杉山神社が、当初からこの地に建っていたと考えます。その方が自然に感じるからです。

中世以降、所領替えに伴って新しく来た領主が氏神だった青木神社を連れて来たとか、林業が盛んなので木の神様を連れて来たとか、そのような流れで青木神社がこの付近に勧請されて、後に杉山明神と合祀されたのでは…と。

そして、元々あった杉山社(現•鐵神社)裏の高台に古墳が複数あったとなれば、この地域は古墳を造ることのできる有力者(一族)が住み、栄えていたムラいうことになる。

もし、ここが古代から栄えていた場所だったら、「鐵神社(杉山神社)だって式内社の可能性?」ってことにもなる。

・・・

「そんなご都合主義な論陣を張られても…」

とおっしゃるあなた! 

•••  いいんです!(川平慈英風)


杉山神社は1000年の謎に包まれた、夢とロマンに溢れるけど、ちょっと辺鄙な所にある神社。

由緒ある扁額とか、印章とか、古文書とか、神職の家系図とか無くっても、その土地が持つ独特な雰囲気にインスピレーションが湧いてきたら、そこはもう、私オリジナルの式内社候補!

再掲

鐵神社は、周囲が田畑ばかりだったごろから、比高が10m以上ある高台をほぼ直線的に突き抜ける参道を持っていた、とっても神秘的で不思議な神社。

この参道と裏の古墳だけでも、私に妄想を起こさせるに十分な材料なのです。(でも、妄想はみんなの迷惑にならないよう、ひっそりと!)


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。