「富士塚」狂詩曲(3) 山田富士
フジヅカ・ラプソディー。憧れの富士よ、いつまでも…
シリーズの最終回です。これまでの記事は↓
山田富士公園
富士塚シリーズの締めくくりは山田富士。
早渕川沿いを、東山田から都筑の北アルプス(勝手な呼称)の尾根伝いに進みます。このあたりは、マンションや新興住宅群といった街並みの中にも、緑が豊かに残っている美しいニュータウンです。
ふじやとのみち
かつての谷戸筋を活用した緑の遊歩道。地域のオアシスです。
公園は横浜国際プールの隣にあり、歴博通りに面しています。
池の後ろの山、あの山の上が富士塚かな?
一番近い登り口から行ってみよう!
山田富士
見えた!おぉ、スゴい。
じゃーん!結構急だけど頑張って登ろう!
横を見ると、エッジが切り立っている。
頂上は火口になっている!
北西側。(この日は風が強く)
南西側。(雲がかかって富士山が見えず…涙)
南側は晴れ。(どこを見てもニュータウン)
東側も。(建物がびっしりと丘陵地を覆う)
足元を見ると、南斜面には大沢崩れ?
反対の北側斜面は、足がすくむような傾斜。
下から見上げるとなかなかの高さ。
丘の鞍部から見た全景。
山田富士の地形
地理院地図で断面図を見てみる。
どこまでが自然地形でどこからが人工的か…分からない。
明治後期の地図にも火口の印が付いています。
拡大して新旧の航空写真を比べてみると、左の写真の火口はかなり大きく、より反り立った形状に見えます。
富士塚の背後には小さな盛り上がりがあり、公園にしては珍しく、道祖神のような石像が置かれています。
基底と思われる鞍部が既に高い(約40m)。
山田富士を後にして、尾根を進みます。
少し高くなっています。
尾根道になっている。
急階段を下って行くと、
広場に戻って来ました。
山田富士の歴史
江戸時代後期には既に存在していた山田富士ですが、その起源は調べてみてもはっきりしません。しかし、地域の人々が大切に思い、山田富士を中心に強く繋がっていたことを、地元の郷土史家が書き記しています。
山田富士は長泉寺の寺領。その麓の太子堂にお坊さんがいて、若者たちが夜になると集まり囲炉裏端で語らっていたそうです。いつしか太子堂は集会場やサロンのようになり、村人たちは山田富士と太子堂を正式に寺から借用することにしました。村人たちは各戸から年貢米を集めて寺に納め、周辺の桜の手入れや草刈りなどを欠かしませんでした。
花見でも有名だった山田富士も、戦時中は軍事教練場となり、頂上付近にあった立派な赤松は皇居の閲覧台を飾るために接収されてしまいました。この村々からも多くの若者が出征したのでしょう。
戦後は青年会が中心となり桜の苗木を植え、その桜は今でも残っています。後に山田富士は公園の管理となり、地域の人の手を離れてしまいましたが、その際に先祖代々受け継がれてきた子育て地蔵の存続を公園事務所と掛け合い、その熱意で守り抜いたそうです。現在も、山田富士は地域のシンボルとして愛され続けています。
山田富士と地域の歴史のお話
太子堂のお話
山田富士の赤松、皇居へ
帰り道、日吉元石川線沿いのデニーズで視界が開けて、その奥に山田富士の姿が見えたのだけど、ビルの合間の「小さなおうち」のようだったので…写真に撮るのをやめました。
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フジヅカ・ラプソディー
初冬の鶴見川沿いを散策すると、富士山がよく見えます。
でも、富士山って本当に不思議。
遠くにいる方が大きく見えるのだから。
「遠くにある物のほうが大きく見える」現象は錯視なのだそう。でも、対象物と近景の対比や遮蔽物との仰角の違いによって起こると言われても、それだけでは無いような気がする。
例えば、雑踏の中でも必要な音だけを聴きとれるように、私たちは視界から富士山をより強調して認識しているのだろうか。
遠くにあるときは近くに見え、近付くにつれ遠退いていく。
学問や芸技の求道者の歩む道のよう。信仰や人の気持ちも同じ。そう考えると、人々が近くに富士塚を置きたがった理由も分かるような気がする。
そんな本家の富士山も、近頃は見える場所が少なくなってきた。せめて富士塚からは、いつまでも見え続けて欲しい。
最後は、ゴダイゴの名曲「ガンダーラ」を。
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