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「富士塚」狂詩曲(1) 池辺富士

鶴見川中流域に新旧の富士塚が祀られる村

富士塚の概論や分布についてご興味がある方は、こちらもご参照下さい。

東方公園

さて、都筑区の富士塚を回ってみようと思います。
以前、大熊川沿いを散策した際、ついでに東方町の高台に上ってみました。

登り切ると標高63mほどの高さ。ここは東方公園、都筑ヒマラヤ山脈の尾根(勝手な呼称)です。鶴見川側から丹沢の山々がよく見えます。

せっかく登った高台ですが、一旦下ってから目的地に向かいます。

下を向いて自転車を押していて、ハッと前を見ると、目の前に横浜市資源循環局の煙突。人工物でも風景に馴染んでかわいいです。
この煙突、鶴見川の灯台みたいなランドマーク。散策中、自分がどの辺りにいるか一目で把握できます。

緩やかな傾斜の丘陵地。水捌けも良さそう。

変だな。グーグルマップでは、この辺りが池辺富士なはずだけど…

すると、左手にかすかに見える白いものがっ。

池辺富士

浅間社の鳥居だ。奥に続く階段もある!

らせん状の階段を登ってみると
視界が開けできた

頂上に祠が見えます。見晴らしはどうだろう?

こちらは西側、川和町方面。奥には丹沢の山々と富士山も見える!

南側の鴨居方面。正面は「池辺市民の森」か。

東には、先ほどの農地。

北側は資源循環局とニュータウンのマンション群。

山頂の様子を見てみましょう。

6畳くらい?の広さで、祠と水盤があります。

よく見えませんが、「富士浅間大菩薩」と書いてあるそうです。

九月吉祥日と書かれている
よく読めません

寛政八年に建立されたので、そう書かれているのでしょうか?

見逃しそうだけど、祠の左奥に裏参道もある。

薮の中をかき分けて下ると、鳥居の近くに合流します。

⚫︎ 池辺富士の外形と立地

東側から
北側。螺旋状に木が茂っている
西側から。こんもりしていてカワイイ。

今昔マップで見てみよう。

右は大正8〜13年、左は昭和36〜39年(この地域最古の航空写真)

西側斜面上部、富士山が見やすい方向に作られていた。

頂上の標高は65.5mで眺望も良い。
公称の比高は8m。断面図を見ると直径が35〜40mくらいか。この辺りは、ニュータウン計画に伴って、切土と盛土を経て緩やかな丘陵地に成形された土地なので、当時の原型までは分からない。

←丘は削られ谷戸は埋め立てられ平滑化した

池辺富士はもともと富士塚古墳だったと言われていているが、出土品もなく詳細は不明。でも、鶴見川中流域で高さ8mの円墳は大きいと感じるので、古墳だとしたら、かなり盛り土されたのかなと思う。

二つの富士塚

池辺町には2つの富士塚があるそうだ。

元富士:星谷の富士塚(上記の池辺富士)
寛政8(1796)年9月建立。現在も、毎年6月1日に池辺の人々により塚の草刈りを行い、清掃後に作物を供え、豊作を祈願する行事が行われている。

新富士:都田小学校裏山の富士塚
元富士の1.2mほど南東、都田小学校東側の丘に位置する。明治の初めに池辺の富士講が、鶴見川に面した富士の眺めが良い丘に富士塚を築いた。
しかし、新富士塚の石碑が割れたり、村中の意見が合わなかったり、新富士塚付近の家々の長男が続々と死んだりしたので、易者に見てもらったところ、「元富士を粗末にしたから浅間様が怒っているのだ」といわれ、以降6月1日には新旧富士塚へ寄付をしたり、お祀りをするようになった。

やっぱり、勝手に神様を祀っちゃうと後で色々と大変…

【ご参考】

港北七富士巡り資料 大倉精神文化研究所


新池辺富士

一応行って見ました。

都田中学校の裏手。なかなかの眺望。

グーグルマップによると、右手の高台が「新池辺富士」のある場所。

道から隠れるように立つ鳥居
鳥居の先に
祠がありました。
裏山は登れる状態ではなかった。

こちらは里宮?別の祠?かなり山際が荒れていたので登頂を断念。

木の根っこの下が崩れてなくなっている。

ブログ「うちの街 都筑!」さんに登り口と山頂が載っていました…
でも、実際にはかなり崩れ易そうで注意が必要です。

標高は59m。傾斜量図のポコっとした部分の比高は、3〜5mほどでしょうか?

今では忘れ去られてしまった新池辺富士…
それにしても、1つの村に2つも富士塚があるというのは、明治に入っても富士塚信仰が根強かったことを示しているのではないでしょうか?


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次回は川和富士を見に行きます!


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とぅーむゅらす
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