あの絵の前で、心の呼吸をするために。
ちょうど1年ほど前に妊娠が分かった。2023年の夏真っ盛り頃の話だ。たしか去年の夏も、どこまでも、果てしなく暑い夏だった記憶がある。
去年の夏の私はロングヘアだった。黒のノースリーブのワンピースがお気に入りで、そのワンピースを着て鰻を食べ、花火を見て、谷根千巡りをして、浅草のかっぱ橋で食器を見て、ギャラリーや美術館巡りをしていたりした。去年も相変わらず、大好きな映画「海街diary」や「ペンギン・ハイウェイ」を見て夏を感じて、行きたいところに自由に行き、食べたいものを食べ、美しいものにたくさん触れていた。鮮やかで眩しい光に目を細めた、そんな夏だった。
そんな夏の真っ只中に、妊娠していることが分かった。
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「子どもが産まれたら、もう旦那さんと美術館なんて行けなくなりますよ。」
たしかちょうど結婚してもうすぐ3年になるタイミングだったと思う。私は学生の頃から美術館に行くことがとても好きで、休日は夫ともよく美術館に行っていた。私は、ひとりでふらっと美術館を訪れる休日が好きだし、友人や夫とご飯を食べ、展示を見て色んな話をする休日も好きで、どちらも私にとってかけがえのないものだった。そんな話をしていたら、私の妊娠が分かったときに、子育てをしている人からそう言われたのだった。子どもがいたら、もうそんな休日を過ごすことは難しいよ、と。
そうなのか、と正直、とても悲しい気持ちになった。この言葉を言われたことが悲しかったのではなく、子育てをする上で、自分の好きなことはある程度は諦めなければならない、ということがなんとなーく分かってはいたものの、どーんと、はっきりと、そのことを言われたような気がして悲しかったのだ。
悲しい気持ちを抱えているうちに、疑問が湧き上がってきた。育児をしているからといって、なぜ好きなことをやめなければならないんだろうか。もちろん時間は限られてしまうだろうけれど、育児をしながらでも、なんとか好きなものを楽しむ方法はあるんじゃないだろうか。
だって、いくつになっても好きなことを追いかけている方が、日々をもっともっと楽しむことができると思う。それは、母であっても父であっても同じなんじゃあないだろうか。親が好きなことを楽しんでいる姿って素敵なんじゃないだろうか。
そんなことを何度も何度も、妊娠中は考えていたような気がする。
臨月の頃には、娘にもうすぐ会えるという喜びと、今までの自分の一部が失われてしまうような不安でいっぱいだった。
自分のアイデンティティがなくなってしまうような気がする、と同じく美術館好きの子育て中の友人に打ち明けると「今、私はなんなら子どもを美術館に連れ回してるし、そういうものは永遠に失われるわけじゃないから安心して!」と言ってもらえてホッとした。そう、好きなものは好きなままでいいんだ、子どもを産んでも変わらない部分があったっていいのだ。私の何かが永遠になくなるわけじゃない。ちょっとの間、その時間が少なくなったり頻度が減ったりするだけで、また楽しむことができるようになる、そう思うと安心できた。
そうして、私は「好きを諦めない」と心に決めた。それは、きっと好きなことを楽しみながら育児をしている方が、私自身が楽しく育児をできるだろうし、娘に見せるのであれば、できるだけ楽しく生きている姿を見せたいと思ったからだ。
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春に娘が産まれた。妊娠生活は大変だったけれど、出産も想像以上に大変だった。
それでも、そんな大変だった日々が吹っ飛んでしまうほどに娘は可愛い。可愛くて、儚くて、心配でたまらなくなる。
退院した日、リビングのベビーベッドに寝ている娘は、本当に本当に小さくて、こんな小さな体でこの世界に生きているのか、とちゃんと息をしているのか心配になり、何度も呼吸をしているか確かめてしまう。
夜中にミルクが詰まってしまい、娘が顔を真っ赤にして苦しそうにしていたときは、心臓が止まるかと思った。あれ、今日は何曜日だったっけ。今は何月だろう。気が付いたらゴールデンウィークは終わっていたし、気が付いたらもう夏になっていた。そうか、あの眩しかった夏からもう1年が経つのか。
平日は夫に娘を見てもらっている間に何とかお風呂に入る。ゆっくり入ってきなよ、と夫が言ってくれているのに娘の泣き声が気になってしまって、まともにドライヤーができなかった。娘が泣いていると、何とかしてあげなくちゃ、と思う。だって、10ヶ月も私のお腹の中にいたのだ。それがぽーんとこの世界に放り出されて、どうしようもなくて何かで困っていて泣いているのだ。なのに、のんびり髪を乾かすなんて無理だ、とその頃は慌てて支度をしていた。(今は、いやその頃の私よ、もっと夫を信頼しなよ、と思う。)
私は長かった髪をばっさりと肩まで切った。娘を産んで1ヶ月が経った頃だった。
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「 好きを諦めない」と心に決めていたものの、実際のところ産んでから1ヶ月間は自分の好きなもののためのまとまった時間はほとんど無かったような気がする。夫と交代で寝ていたものの、夫も自分の仕事があるので、日中は私が娘の面倒を見る。新生児期は、娘はほぼ寝るか泣いているかミルクを飲んでいるかのどれかだったので、私も寝るか抱っこしているかミルクをあげているかのどれかだった。
娘が膝の上で寝てしまったときにイヤホンをして、こっそり少しずつ見ていた映画や海外ドラマが癒しだった。ああ、ちゃんとこうした産前の自分が好きだったものを楽しむことができるんだ、ということに安心していた。
春に産まれた娘の予防接種も終わり、ようやく抱っこ紐やベビーカーで少しずつお散歩ができるようになった頃。
うだるような暑さが続いていたけれど、数日だけようやく少し梅雨らしい曇り空と雨を繰り返す日が何日かあった。
みんな、赤ちゃんとのお出かけはどこに行くのだろうか?
それまで私が娘と出かけた場所は、近所のスーパーと本屋、病院、自治体の建物くらい。ちょっとずつ行動範囲が広がってきたとはいえ、まだまだワンパターンなお出かけになってしまいがちな上に、最近は暑い日が続いていたので近所でのお出かけさえも控えてしまっていた。
天気予報を眺めながら、ここ数日はせっかく涼しいことだし、私が行きたいところに娘と出かけてみようとふと思い立った。
そして、ちょっと嬉しくなる。私は、「私が行きたいところ」を考えることができる余裕が生まれてきたのか。そうかそうか。娘が産まれてからここ数ヶ月ほど、本当に娘のことで頭がいっぱいで、文字通り寝ても覚めても娘のお世話をしていたけれど、私は自分の行きたいところに行ってもいいのか。
とにやにやしたのも束の間、色んな不安が出てきた。そもそも、今まで病院以外の外出先で授乳やオムツ替えをしたことがなかった。基本的に、娘も外出中に泣くことがあまりなかったし、大体の外出は1〜2時間くらいの近所で済ませていた。何で出かけよう?どこで授乳する?何時に出かける?
健診や予防接種で前日から緊張していざ外に出てみると、他のお母さんたちはみんなすごく余裕があるように見える。(きっとそんなわけはなくって、外に出さないだけでみんなすごく不安なんだろうとあとから思う)なんで、みんなそんなスムーズに外出できるんだろう、なんで私はこんな不安に駆られているんだろう…。
そんな不安が色々と出てくると、つい「やっぱり家にいよう」となってしまいそうになるけれど、翌日はなかなかない涼しくてかつ雨の降らない日なので、何かあったらすぐに夫に電話をする、すぐに帰宅することにして、今回は娘と2人でえいやっと外出してみることにした。
よくよく考えると、産前の私はものすごくフットワークは軽かった。どれくらいフットワークが軽いか、というと、ふと思い立って、見たい展示のために、翌日長野に行ったり、京都に行ったりするくらい。そんなにフットワークが軽かった私でも、赤ちゃんがいるとなると数駅先の外出であっても、馴染みのない場所ならば数日前に授乳室の場所とか下見をしておきたいな、という感じになるのである。
さて、行きたいところはどこだろう、と考えたときに、やはり美術館に行きたいな、と思った。最後に美術館に行ったのは臨月のとき。産後はまだ一度も行けていなかった。ドキドキしながら、上野の西洋美術館の常設展のチケットを買った。
前日にママパパマップというアプリ(授乳室やオムツ替えスペースを確認できる地図アプリ)を使って、近くの授乳室をチェック。美術館の中の設備も確認しておく。マザーズバッグの中身も確認する。
「好きを諦めない」なーんてかっこつけて心に決めていたけれど、これはたしかに大変だわ…もう旦那さんと美術館なんて行けなくなるよ、と言いたくなるのも頷けるわ、なんて思ってしまう。だって、ただ電車に乗るだけでもものすごく不安なのに、その不安をひとりで抱えて、しかも美術館って日本だとかなり静かな空間だからぐっすり赤ちゃんが寝てくれていたらいいものの、もし起きてしまったらハラハラしながら会場を回ることになりそうだ。(ちなみに、国立西洋美術館だとたまに子連れ向けの日というのもあります。そういう日だったら子連れでももっと行きやすいと思う。)
とりあえず、娘が泣きそうになってしまったらいったんすぐに会場を出よう、なーんて私はずーっと心配していたのだけれど、外の涼しい風が気持ち良かったのか、娘は上野に着く頃にはぐっすりお昼寝をしていた。
妊娠していた頃は大きいお腹を抱えながらよく美術館の中を歩いていたけれど、今はすっかり産まれた頃の倍くらいのずっしりとした重さになった娘を抱っこしながら絵の前に立つ。
以前来たときと同じ常設展であっても、ぐっと惹かれる絵は同じだったり、違うものだったりするから面白い。
赤ちゃんと山羊を抱っこする女性が描かれているウィリアム・アドルフ・ブークローの《純潔》を眺めながら、ふと娘の寝顔を見つめる。娘の寝顔を見つめるときの私は、こんな表情をしているのだろうか。
夫が娘を抱っこしているときや寝ている娘を眺めているとき、何だか今まで見たことのないような幸せそうな顔をしていることがあって、ついついこっそり写真を撮ってしまうことを思い出した。この絵が描かれたのは1893年。何年、いや何百年経っても、赤ちゃんを抱っこしている人の、このなんとも言えないふわっと心の底から柔らかさが湧き出てくるような優しげな表情を残しておきたい、と思う気持ちは変わらないのかもしれない。
カミーユ・コローの《ナポリの浜の思い出》はこの季節ににぴったりの絵だと思う。遠くに見える浜、帽子を片手に持つ女性、その女性と手を繋ぎ、もう一方の手で子どもを抱きかかえている女性が木立の奥から歩いてくる。夏の夕方の光だろうか。二人の女性の表情は分からないけれども、きっと満ち足りた表情であろうことは想像がつく。私は、いつかの眩しい夏の思い出に思いを馳せつつ、絵を眺めた。
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わざわざ赤ちゃんを連れてこんなところに来なくても、と言う人もいるだろう。かつての私だったら、同じように思っていたかもしれない。そんな大変な思いをしてまで、わざわざ今行かなくてもいいじゃない、もう少しゆっくりと出かけられるようになってからでいいじゃない、と。
実際、子どもを産んでみて、分かった。
そういう問題ではないのだ。子育てには毎日始まりも終わりもなくって、でもそんな日々の中でわずかでもなにかいつもと違うもの、惹かれるもの、美しいものを自分の心の中に取り入れたくって、そのものたちはただスマホの画面を見ているだけじゃ手に入らないのだ。今、この瞬間に少しでもその何かに触れたい。だから、わざわざこの絵の前に立つために、ここに来るのだ。
ちゃんと、その絵の前に立って、その絵の前で呼吸をして、そうすることで何だかまるで心が呼吸をしているような、そんな気分になることができるのだ。
だから、今、あの絵の前に行きたいのだ。だからこそ、私は好きを諦めたくないのだ、と。
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