連載小説 | 春、ふたりのソナタ #1
この作品は #創作大賞2024 応募作品です。
【ソナタ】
語源はイタリア語で「鳴り響く、演奏する」。
ソナタ形式の一つの特徴として、互いに性格を異にする複数の楽想による主題対比の原理がある。
♦︎ ♦︎ ♦︎
「自分の言いたい事を書きなさい」と先生は言った。
2年生の春、新学期始まってすぐの国語の授業のこと。
明確に言うと、学校の先生ではなく、小説家の先生だ。この時、たぶんクラスで一番真剣に先生の話を聞いていたのはこの私に違いない。なぜならその先生とは、私が昔からファンである小説家・陽河ユイ、本人だったからだ。
わたしの通う私立小町女子高等学校、通称コマ女では、創立100周年記念行事として《校内文芸コンクール》を開催することになった。
校内コンクールと言っても侮るなかれ。歴史的な文豪が多く住んでいた鎌倉という土地柄から、うちの高校は文学の勉強に力を入れているのだ。その為、昔から多くの作家を輩出しており、今もなおご活躍されている卒業生の作家の先生方が今回のコンクールの審査員をなさってくれるそうなのだ。その中の一人が、私の大好きなファンタジー小説『精霊の森のちいさな魔女』シリーズの作者・陽河ユイ先生ということだった。
それを聞いた瞬間、わたしは目を輝かせた。
小説を書いたら、陽河ユイ先生に読んでもらえるってこと……?
それって凄すぎない……?
私は本が大好きで、2歳の頃から毎日「絵本読んで」とねだる子だった。それと同じくらい物語を考えるのも好きで、小学生の頃はノートに物語をたくさん書いて、書いたら友達に見せ、続きをせがまれてはまた書いていた。全部で5冊程になった物語ノートは、今でも引き出しの奥に閉まってある。
でも書くことはいつの間にかやめてしまった。
なんでだったっけ……。
「これはテストのように正解はありません。せっかくなのだから、今自分が一番言いたい事を書きなさい。その熱量はきっとわたしたち審査員たちの心をあっと驚かせるでしょう」
わたしが熱心に聞いているからだろうか、陽河先生がこちらを見た。
わ……。
そして、にこっと微笑んだ。 わたしにはその微笑みがなんだか「期待しているよ」と言っているように感じて、胸に小さな火が灯ったような気持ちになった。
机の上に広げた原稿用紙は1時間経っても真っ白で、時計は夜の10時を迎えようとしていた。
「お姉ちゃ~ん」
「……」
「お姉ちゃんてば~」
「は~い……」
机にかじりつき、幾度の呼びかけに生返事で応じるわたし。
「もう! いつまでやってるの? 私もう寝るよ!」
二段ベッドの下で寝ていた中学生の妹が、飛び起きてわたしを睨む。
「ごめんって~」
仕方なく原稿用紙をまとめ、筆記具と一緒に胸に抱え、灯りを消し部屋を出た。
リビングに行くと、まだ母が起きていた。ダイニングの灯りだけ付け、家計簿をつけているようだ。ちら、とこちらを見た。
「真名、あなたまだ寝ないの?」
「うん、ちょっとやることあってね」
母の作業するテーブルの端に座り、原稿用紙を広げた。
「よし」とシャープペンシルを手にして、原稿用紙に向かい合う。まず、何から書くべきか。主人公から決める? それともテーマから? それとも舞台から? 自由に書けと言われると、なにから手をつければいいかわからない。なにかお題でもあればいいのに。あ、お題は「自分の言いたい事を言いなさい」ってことかな。私の言いたい事……。一番言いたい事……。
その時ふと、桜を眺めている女の子の姿を思い出した。
その子は桜に向かって1人で鼻歌を歌ってて。変な子だなって通りすがりに振り返ってみたら、楽しそうに笑ってた。その横顔がとてもきれいで、可愛らしくて、わたしは目を離せなくて……。
「なに書いてるの?」
気付くと母が横から覗き込んでいた。わたしは咄嗟に原稿用紙を隠した。
「わ!」
「なぁに? 小説でも書いてるの? ちょっと見せてよ」
「ええ……」
「どんなお話なの? あなた昔ちょっと小説書いてたわよね。ほんとにちょっとだけだけど」
母は興味津々で詰めてくる。
「……ひみつー!」
わたしは恥ずかしくなって、原稿用紙をまとめ、リビングから出ていった。
あんまり書いてるところ、人に見られたくないな……。そうなると家だと書く場所ないし、どうしよう。
頭を悩ませながら二階に上がると、ふわり、といい匂いがした。
廊下の少し開いた窓から春の暖かな夜風が入ってくるのを感じた。わたしは窓を全開にして、夜空を見上げた。
お月様が笑っているようにこちらを見た。その瞬間。
(あ、そうだ。明日の朝早く行って、教室で書こう)
そう思いついたら、少し胸が弾んだ。
翌朝五時。四月の朝はまだ少し冷える。わたしはなんとかベッドから這い出て、洗面所に行き、まっすぐに揃えた前髪をタオル生地のヘアバンドで抑える。暖かいお湯で何度も顔を洗うと目がしゃっきりしてきた。
肩で揃えた髪を半分だけ掬い取って後ろに髪留めでまとめる。
「よしっ」と頬を両手でぱしんと叩いた。
二年一組の教室は誰もいなかった。窓を開けると校庭から野球部の朝練のかけ声が響いてくる。窓際の後ろから2番目にある自分の席に座り、カバンから筆記用具と原稿用紙を取り出した。
「さぁ、書くぞ~」
一人きりの教室に自分の声だけが響く。なんて静かで贅沢な空間だろう。
原稿用紙はいまだに真っ白だ。参考に持ってきた小説をぱらぱらと読んでみる。
最近流行っている恋愛小説なのだけど、あまりピンと来ない。
昔から恋愛漫画や小説にはあまり共感できなくて、楽しめない自分がいる。
どうしようかな、とぼおっと窓の外の桜たちを眺めている時のこと。
遠くからピアノの音が聞こえた。
まるで春の訪れを喜んでいるかのような、気持ちが弾むような音楽だ。
色に例えるならピンク。桜の咲く秘密の庭で、小人たちが踊っているような。
楽しげな情景が目の前に浮かんでくる。
こんな楽しい音楽、初めて聞いた。
誰が弾いているんだろう?
教室を出て、廊下で耳を澄ますと、下の階から聞こえているようだ。階段をおり、二階へ行く。降りて、右の突き当たりには音楽室がある。音色はその手前の音楽第二準備室から聞こえてくる。
音楽第二準備室……? なんで……?
その部屋は生徒たちの間では《開かずの部屋》と言われていて、いつも鍵がかかっているので誰も中へ入った事がない。しかも放課後になると音楽家の亡霊が出るなんて噂もある、いわく付きの部屋だ。
そんな噂、本気で信じちゃいないし、今聞こえてくる音色はそんな恐ろしい亡霊が弾いているなんて思いもしない可愛らしい音色だ。
わたしは意を決して、準備室の少し開いたドアの隙間から中を覗き込んだ。
桜並木の淡いピンク色に包まれ、窓べのピアノの前に髪の長い少女が座っていた。端正で品のいい横顔、ふっくらした桃色の口元は微笑み、楽しげに鍵盤を弾き、次々に春の音色を生み出している。
二年四組の月代さん。
その光景があまりにきれいで、わたしは思わず握っていたシャープペンシルを落としてしまった。
「あ」
月代さんは手を止め、こちらを見た。目がぱちりと合う。
「あ……、ごめんなさいっ」
わたしが慌てて謝ると、月代さんは口元に人差し指を立て、「しー」っと言った。
「え?」
そして「こちらへ」と呼ぶように手招きをした。わたしは準備室の中へ恐る恐る足を踏み入れた。
「けほけほっ」
埃っぽい。辺りを見ると、床や棚には埃のかぶった楽器のケースや壊れた譜面台が乱雑に置かれている。月代さんの弾いていたピアノも相当年代物のようだ。第二準備室は今はもう誰も使わない古い楽器たちの物置、いや、墓場と化しているようだった。
「秘密なのよ」
「え?」
月代さんはまた口元に人差し指を立て、いたずらっぽく微笑んだ。
月代さんってこんな風に笑うことあるんだ。
いつも凛とした佇まいだから、少し怖い人かと思ってた。
いや、今はそうじゃなくて……。
「えっと、どうゆうこと? ここって誰も入れないはずじゃ……」
月代さんはポケットからなにかを取り出し、わたしの目の前にかざした。
小さな鍵だ。
「この鍵はね、秘密の鍵なの」
「秘密の鍵……?」
「毎年、コマ女の生徒誰か一人に、代々引き継がれる秘密の鍵でね。わたしは今年卒業した先輩からもらったの。とってもピアノの上手な先輩だったわ」
「へぇ……! なんだか小説みたい! 面白そうなお話……!」
そんな秘密の伝統があったなんて。確かにコマ女は古くからあるから、そんなお話し一つや二つあってもおかしくはない。
月代さんはキョトンとこちらを見ていた。私が興奮して大きな声を出してしまったためだろう。
「あ……、ごめん、思わず。……そういうの好きで」
「ふふ、そうなのね」
月代さんは嬉しそうに話を続ける。
「いくつかルールがあってね。一つはピアノを弾く事が好きな子にこの鍵を引き継ぐ事」
月代さんはピアノに優しく触れる。
「このピアノは古いんだけどね、とても良い音の出るピアノなの。だから、壊れてしまったって聞いた初代の生徒はこっそりこの合鍵を作って、先生に見つからないようにこのピアノを直したって聞いたわ」
「結構大胆な先輩がいたんだね……」
わたしが少し引いた顔をしていると、月代さんも「そうでしょう」と苦笑した。
「でもわかる気がするわ。弾いていてとても心地いいんだもの。きっと特別なピアノなんだわ」
「ふぅん……」
わたしはピアノを訝しげに見回した。
ポーンと弾いてみる。
全然良さはわからない。
「……きっとピアノを愛する人にしか分からない何かがあるのね」
月代さんはきょとんと見ていたが、「きっとそうね」と微笑んだ。
「そしてもう一つのルールはね」
「うん」
「引き継いだ人間以外にはここを使っていることを秘密にすること」
「あ……」
「すぐばれちゃった」
月代さんは困ったように笑った。
「ご、ごめん。ついきれいな音が聞こえたから」
「わたしも窓を開けっぱなしで弾いていたから仕方ないわね。あまりに桜がきれいだったから」
窓の外には校舎に沿って横並びで咲く、美しく立派な桜がよく見えていた。
「本当、きれい……! ここって特等席じゃない?」
わたしたちは窓から顔を出し、しばらく桜を眺めた。
「さっきの曲、すごくきれいで、まるでこの桜みたいな曲だった」
月代さんは少しびっくりした顔をした。
「……ありがとう。とってもうれしい」
そして、少し照れたように微笑んだ。その笑顔がとても可愛くて、月代さんはやはり可愛い人なのだ、と思った。
「ところで、なんでこんな朝早くにいたの?」
思い出したように、月代さんが問いかけた。
「あ、えっと」
「なにか朝練とか?」
「まぁ、そんなような」
わたしが濁していると月代さんはなにか気づいたように、にやにやと問いかける。
「なにか秘密の特訓なんでしょう?」
秘密? ……確かに、言われてみればそういうことになるかな。
完成するまで誰にも話さない予定だったけれど、もうこの際いいか……。
「……実は、わたしも秘密で書いているの」
「書いている?」
「校内文芸コンクールの作品」
「ああ!」
月代さんは合点がいったように頷いた。
「コンクールに作品を出すのね! すごい!」
「そんな、出すだけでおおげさな」
「ううん! 私もだけど、出すっていう人が周りにいなかったのよ。だから作品を書いて出すってこと自体、すごいことだと思うわ」
「そ、そうかな……」
「私、書くことは出来ないけど、読むことは好きなの。だから、すごく興味あるわ」
月代さんは心底尊敬したような目で、わたしを見つめている。
「そうなんだ……。そしたら、書けたら、読む?」
あ、なんかすごく調子良いことを言ってしまった気がする。気を遣って言ってくれてるだけかもしれないのに……。しかもまだ一文字も書けてないのに……。恥ずかしい。やっぱりいいやって言おう……。
顔を上げると、月代さんは目を輝かせて言った。
「読むわ! 絶対読みたい! 完成したら読ませてね」
月代さんの瞳は透き通っていて、すごくきれいで、わたしは自然に「うん」と頷いていた。
「やった! 約束ね」
月代さんはわたしの手をぎゅっと握った。
「わ……」
「楽しみにしてるわ」
「うん……」
月代さんの手は指先がすらっと長くて、でも少し柔らかくて気持ちいい。
「……えっと、お名前は……」
「あっ、わたし? 星川真名。二年一組の」
「真名さんね、いい名前。私は……」
「四組の月代有希子さんでしょ、有名だから知ってる」
「……わたし有名なの?」
「えっ」
学年一の秀才で、凛とした美少女。コマ女の女神として1年生の頃から月代さんに憧れている生徒は多い。先生だって、よく「月代さんを見習いなさい」と言うほど一目置いている。
けど、そういう周りの評価を本人はよく知らないらしい。
きょとんとしている月代さんがなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。
「月代さんってちょっと変わってるね」
「えっ? それって良い意味かしら……」
「さぁ」
「えっ、そんな……」
暖かな気持ちになって、わたしたちは笑いあった。春の風が柔らかく、ふたりを包んでいるかのように。
「いってきます!」
その日から、わたしは毎日、早朝から学校へ通うようになった。
朝の光の中、桜の花びらがちらほらと流れる用水路の脇を、わたしは駆け足で通りすぎる。今日も、月代さんは来ているかな? そう思うと、無意識に浮き足だってしまう自分がいる。別に会う訳でもないのに。
「ガラッ」と音を立て、ドアを開ける。
教室はもちろん誰もいない。わたしは弾んだ息を落ち着かせ、教室の自分の席に座った。窓を開けると、昨日と同じ野球部の朝練の声が聞こえた。しばらく耳を澄ませたが、聞こえるのは「カキーン」という打撃音だけ。
わたしは少し落胆して、席につく。
昨日の出来事はまるで夢みたいだった。
『秘密ね。わたしと真名さん、ふたりだけの秘密』
昨日、月代さんはわたしの目を見て、いたずらっぽくそう言った。
『じ、じゃあ、わたしが小説を書いていることも秘密にしてね』
わたしが照れたように言うと、月代さんはふふっと笑って、小指を出した。
そうやって、わたしたちはお互いの秘密を共有した。
早朝、誰もいない学校で、秘密の演奏に、秘密の執筆。
わたしたちふたりだけの秘密。
そう思うとなんだか胸がくすぐったくて、ふわふわした気持ちになった。
ピアノの音がした。
窓の外へ顔を出すと、下の階の第二準備室の窓が開いていた。
わたしはどこか安心した。昨日の出来事は夢じゃなかったんだ、と。
席に座り、心地いい音色に耳を澄ませた。
冬が明け、春が訪れたことをみんなでお祝いしているかのような、桜が満開になって咲いたことを喜んでいるような、そんな曲だ。まるで入学式のような。
「あ」
思い出した。
1年前の入学式の日。桜の木の下で、じっと桜を眺めながら鼻歌を歌っている女の子。あの時の少女は月代さんだったのだ。雰囲気が違うから気付かなかったけれど、昨日見た笑顔はあの時のものと一緒だった。
あの風景はなんだか絵画を見ているようで、とてもきれいだった。昨日の出来事だってそうだ。月代さんはまるで小説の中の登場人物のよう。
そうぼんやり思っている間に、わたしは自然とペンを取っていた。まるで自動手記のようにペンが動いて、原稿用紙に文字を綴り始めた。文字は文章になり、文章は段落になり、一枚、二枚、三枚、と原稿用紙が文字で埋め尽くされていく。
《今はもう誰にも使われていない旧校舎の音楽室。放課後になると美しいピアノの音色が聞こえてくるという。ある日、遅くまで残っていたわたしは音色に誘われ、その部屋へ足を踏み入れる。そこには、古いピアノを楽しそうに演奏する、美しい黒髪の少女がいた。少女はわたしに、こちらへと手招きする。わたしは誘われるままに近寄ると、少女に手を引かれ、抱き寄せられる。間近で見るその少女の瞳は、桜色に輝き、あまりにも美しくわたしは見惚れてしまう。気が付くとわたしと少女は知らない場所にいた。そこはたくさんの桜の花が咲く秘密の庭で……》
チャイムの音がして、ハッとした。
目の前の原稿用紙を読み返した。
これじゃあ、まるで昨日の月代さんの話じゃない……。
しかも、わたしが主人公で、月代さんに恋をしているような……。
「おはよう」
「わ!」
突然のあいさつに振り返ると教室には、クラスメートたちが続々と登校してきている。挨拶してきた高田さんはわたしの後ろの席についた。
「お、おはよ」
「星川さん早いね」
「ちょっと自習してて」
わたしは原稿用紙をカバンの奥へ仕舞い込んだ。
「ん? なにか隠した?」
「なんでもないよ」
なんでもない。こんなお話、誰にも見せられる訳がない。
『完成したら読ませてね』
月代さんの声が蘇る。
その瞬間、ぞっとした。
これは違う、わたしが言いたいことじゃない。
なんとなく思いついただけ。
月代さんがきれいだから。あまりにきれいだったから……。
ただ、それだけ。
わたしは鞄の奥の原稿用紙を、握り締めてぐしゃぐしゃにした。
《続く》
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第八話
第九話 《完結》
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