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季節を追うごとに

暖かくなると何もかもどうでもよくなり、ほやほや〜っとしてしまう。

春を待つ時はいつも冬の寒さに飽き、
ただ陽の光のほの暖かい窓際を愛して消化試合をしているような気分だ。
自分が何を成し遂げることもなく、ただ何かしらに足を取られているような、
そのうちに大事な何かを無くしてしまったような、
過ぎ去ったそんな気持ちに囚われたりもする。
要するにこれは長いこと寒くて、モチベーションが下がってイライラしがちなんでしょうね。

岩盤ヨガをやってみたい…と思うのもいつも冬季だ。
費用と時間の問題でまだ体験すら行ったことがなく、
そのうちに肩こりやら妙な疲労感に耐えられず整体に行き、資金が逃げる。
ヨガ…いつヨガ…

そうこうしているうちに春はやってくる。
春は最高だ。
暖かく、伸びやかで、全てのものが息を吹き返すようだ。
桜の蕾がつき始めると、桜並木はほのかに花の香りが匂う。
見上げるとほわほわと柔らかに赤みが差したように見える。
最高だ。桜の咲く瞬間を待ち侘びるこの瞬間が堪らなく好きだ。

物事は待ち続け、今開くという瞬間が一番美しい。
獲得は必ず喪失の種であり、喪失は継続の芽だ。


ー春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて、紫立ちたる雲の、細くたなびきたる。

枕草子の季節の美しいところを述べているところはただ「春のいいところは〜」「夏のいいところは〜」とダラダラと言っているわけではないようだ。

物事の始まりはまだ辿々しくとも必ず目で追ってしまうほど美しい。
盛りを迎える頃はその成果を静かに見返し振り返る時間が特に素晴らしい。
斜陽の頃には沈み埋もれていく様を見届ける時は過ぎ去る寂しさを感じるも、見届けるのみ。
遂に沈んでしまったらまた新たに起こし情熱を感じるが、
長々と執着してしまえば白けてしまいやけにみっともない。

あまり詳しくないので幾つの頃に書いたものなのかはわからないけど、
まだ人生のサイクルが早かった平安時代なら既に年増と言われた頃に書いたのだろうか。
だとしたら、色んなことを経験した彼女はこんな気持ちであったのかもしれないなぁ。
あれ、そういえば国語の授業でそんなことを言っていたか。

正直その話を聞いた頃は「そんなことより点数だ。通知表で5が並べばお年玉が弾む」ということのみを考えていた。
人生の目的意識はお年玉やお小遣いに注がれており、
無形の資産などというものにはただ一言、「ハァ?」だった。
春の日差しは暖かく、万物を伸ばすことのみに注がれ、伸びすぎた蔦や増えすぎた藻は様々なもの隠し、そのものが何だったのか見えなくしてしまう。
爺ちゃん、お年玉いっぱいありがとう!

今になれば教養というものはあればあるだけよく、人生を豊かにするのでもう少し心から真面目に聞くべきだった。

そういえばこれを一番最初に教えてくれた、
当時30過ぎの女性の先生は
「春の君たちにはまだわからないと思うけど、私にはよく感ぜられるものがある。
この一節は人生を歌い上げている」
なんて言っていたような。

20数年を経て、突然これを思い出すということは私もまたその時に手が届こうという年頃なのかもしれない。

春の始まりは遠く過ぎ去り、
夏の盛りも終わり始める。
斜陽の時を迎えようとする頃に得たものとは一体何か。
子が大きくなれば私の価値は更に目減りしていくのだろう。
その時にまた起こせるほどの何かを持ち続けていられるのだろうか。

雁が飛んでいく姿を見送る肌寒い季節。
ここで厚手のアウターを持っているか否かでその後の人生が変わるというのに、
流行も気候も目まぐるしく変化し続けている。

わけがわからないよ。

突然ですが、まどか⭐︎マギカの続編が楽しみで仕方がないです。

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