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閉店時間のお客さん

よい物語食堂にはときどき、営業時間以外にもお客さんが来ることがある。

 Wさんは早朝に朝ご飯を食べに来る。どうやら彼は、人通りの多い日中には外には出られないらしい。朝ご飯といってもまだご飯の支度はできていないわけで、食べるのはまかない用の冷凍ご飯を温めたものと、キムチ納豆である。それでもWさんはご飯を食べ終わると「今日も愛情をありがとう!」と言って帰ってゆく。彼の後ろ姿を見送りながら(「料理はひと手間が愛情」ってあれ嘘だな…)と思いながらも爽やかな「ありがとう」にわたしも心が軽くなる。

 Sさんは閉店後の夕暮れの時間にふらりと食堂にやってくる。音もなく入ってきてはお店の隅に静かに座っているので、私はその存在に気づくなり「うわぁッ」と叫び声を上げることもしばしば。Sさんは何をするでもなく、何を話すわけでもなく、いつもただ、そこにいる。ときどきひとりごとのように「今日は肉じゃがですか、いいですね」とつぶやいたりして、スマホをいじりながらわたしが片付けを終えるまでそこにいる。帰り道に「今日はどこか行ってたんですか?」と聞いたところで、いつもこの質問の答えが同じことに気づいた。「今日は病院の帰りなんです」。しばらく時がたって、ちょっと表情の明るくなったSさんがいつものように椅子に座っていた。聞くと、初めての就職が決まったのだという。それからも仕事帰りにふと寄ってくれるSさん。「今日は仕事どうでしたか?」と聞くと、「今日もいつもと変わらず普通でしたよ。でも、普通なのがありがたいですよね」

 ちょっと小高い場所にある食堂の駐車場からは、この町が一望できる。そこからの景色をながめているうちに、屋根の数だけ苦労があることを知らされる。生きるということは決して当たり前のことではなくて、人知れずアパートの部屋の中で闘っているWさんがいて、なんでもない一日がありがたいというSさんがいる。それぞれの人生の物語があり、それぞれの苦労があり孤独がある。それでも、そのひとつひとつがよい物語となるようにと祈らずにはいられない。

透き通った冬の空は、色とりどりの屋根の上にどこまでも広がっている。その空と屋根との隙間から、小さな白い十字架が見えた。

そういえば、もうすぐクリスマスである。


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