つまり

日常での気づきとアイディア、それだけ。それ以外は投稿しない。

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最近の記事

全てが評価され尽くした2020年

2020年、旅館・グルメ・映画・本をはじめ世の中の大体のものは評価され尽くした。 ステマやアフィリエイトの影響でまだ充分な精度ではないが、もう数年すれば誰もが「全てのモノへの正確な評価」にアクセスできる時代になる。 そこにあるのは苛立ちだ。 評価に支配された消費活動は、効率的だが自由でないからだ。ロマンは統計にねじ伏せられる。 星4.5評価の映画を見てFilmarksに星4.5をつけている。 食べログ3.5以上のお店でご飯を食べてなるほど3.5くらい美味しいと感想を吐いて

    • 言語化されていないものごと

      世の中には言葉が溢れている。 人は言葉で人に想いを伝え、言葉で考える。 流行語大賞みたいに新しく言葉が生まれたり、はたまた死語として消えたりしている。 それでも、世界には言葉になっていない物事はたくさんある。特に感情に関してはそれが顕著だ。 これまで感じた悲しさは一度も同じだったことはないし、嬉しさにはその時々で様々な種類がある。 感情は色彩のようなもので、本来区切られていないものだと思う。10,000色ある色を勝手に分類して、数十色にしているような違和感がつきまとう。

      • 名前のある感情、ない感情

        日常の中で、心の機微に触れる瞬間がある。 それはピンからキリまで様々で、 古いおもちゃが道端に落ちている時だったり、田舎で大きな伝送線を見た時だったりする。 その感情は、幼い時の感情と一瞬にしてシンクロするような感じで、暖かさや悲しさといった雰囲気のものだ。 自分の中でその感情には名前をつけずに 「不思議な感覚に陥る」と表現して なんとなく大切なものとして扱っている。 世の中にはその感情に対応するような言葉がいくつかある。「エモい、切ない、ハッとする、心揺さぶられる」な

        • 記憶と写真は別でいてくれよ

          記憶だと思っていたものが写真だった ということがよくある。 特に幼い頃の記憶はそうだ。 川辺の小屋で貯金箱を作った経験をよく覚えていると母親に話をした途端「ちょっと待ってね」と言われ、まさにそのシーンの写真が出てくるのだ。 なんとなく悔しい気持ちだ。 儚く美しい記憶だと思っていたものが、その時の感情そのものではないと知るからだ。 それなら、絶対に写真ではない記憶を自分の中から見つけてやろう。 僕の通っていた保育園の男子トイレの立ち小便器には、それぞれ目の前にウ

        全てが評価され尽くした2020年