偉大なる個性 第一章
私は成人して家庭を持ち、子供を育てているありきたりな父親である。
指導者のあるべき姿は今や様々であるが野球を手取り足取り教える事より重要な事が浮き彫りになった現代日本野球。それはもう周知の通りで、結果を求めるならばチームの犠牲になる事が主の野球ではなく、自分がまず自分の野球をやる事が最重要とされ始めた。個性が躍動すればチームは絶対に強い。特に高校野球レベルだと名門に集まる個性に大きな差はなくなっているので、後は個性の違いで臨機応変に試合に使うのが望ましい。
今日は「基本」と言う言葉の本当の意味、果たしてその言葉を基準にしていいのか、について語ります。人を一定の基準に合わせたり、時に何かを測る定規的なモノに変わります。そんな便利な言葉が「基本」であり、日本の指導者は自らが指導を受けた経験も含め教育や躾に基本、基本的と言う言葉をよく使います。身近に感じすぎるこの言葉は一般的に常識、当たり前、まず必要な力、の意味で大体合ってると思います。しかし今さらですがその言葉、かなり危険です。なぜならそこに「大体」と言う余裕を持つ意味が含まれてない。解釈されていない。「基本」に「大体」は許されないここ日本では確実に基本に到達出来ていないと次に進むことが許されない風潮にあり、「基本」と言う言葉は強制力が強く、個性で生きてきた人間に押し付ければゼロからやり直すと言う意味でもある。完全な可動域を持ってたとしても皆と同じストレッチをやらせたりする。それが日本の教え。
自分は純粋な日本人で箸の持ち方から習字、組体操とありとあらゆる「基本」を植え付けらた世代の人間だ。ただ従順に言う事を聞いた。それが普通と言われたし、普通や常識が分からなければ頭が悪い、恥だとされ、戦時中と何ら変わらない教育を受けた。いつの間にか洗脳され、自分の子供にまで基本とか当たり前と言う言葉をぶつけたと思う。思えばその間個性は生きてこなかった気がするし、野球を始めた頃なかなか結果の出なかった事で個性を抑え込み「基本」という、まるで正義の名のもとに鉄槌を下していたと思えるほど。命令口調になり、自分の野球経験で息子の能力を測ってしまった過去がある。現在は紆余曲折しながら二人三脚で自分のやりたいプレー、バッティングスタイルを話し合って練習している。一般的な基本と言う動作を語ることはなく、どうすれば自分のなりたい形、なりたい自分になれるかが重要で基本という形にこだわった野球はしていない。頑張らないんじゃない。楽しようとしてるんじゃない。学習した結果、自分に合った形を見つけただけ。そして結果に向かって努力するだけ。どう打ったってヒットはヒットだし、ホームランはホームランだ。全てはアクションによる結果でしかない。日本は基本的に完璧な事を相手に求め過ぎる傾向にある。
先にも書いた「可動域が抜群に広い子に右えならえでストレッチをやらせても時間の無駄」は東大生に中一の問題を解かせるのが意味を持たないのと同じ。自分にとって大きな意味を持たない事ならばそれに時間を費やす事は限られた短い時間を無駄にするという事でもある。現代を見るとまだまだ余裕のない「基本」に従順な教育は根強く、戦争時代も今も変わらず右えならえは変わらない。そもそも全く同じ体の人間など存在しないし、思考も違えば興奮するポイントだって違う。結局のところ成長の速度だって全然違うんだからまず基本や基本的、普通、と言う考えに価値はない。
基本がない世界であればこそ自由の名の元、しっかりルールを守り相手をリスペクトして楽しむ。実はそれが全てじゃないかと思っている。スポーツも勉強も恋愛も全て。例えば基本が大事で基本が出来なければ全ての動きが出来ないと言われてしまったら何も意識せずともホームランを打ち、速球を投げ、アウトに出来る足さばきが出来る子供に出来てる事を基本の名のもとに必要かどうかも分からない基本をやらせるのだろうか?時間だけは人類平等に消費していく。時間を無駄にする指導は本来愚かだ。指導放棄と同じくらい。人間は進化が出来る生き物。対価は時間の消費。そこまで「基本」という言葉に価値を持たせなくていいと思う。遠回りになったり、逆に良くなくなる事もある。
ちょっと思った事。日本は義務教育で飛び級が無い。何でだろう?頭脳のレベルに歳は関係ないと思う。なぜダメなのか?飛び越しちゃいけないのか?学年事の授業より能力別でいいんじゃないか?勉強も自分が必要だと思える歳から学習の視野を広げて、身体を動かす必要を感じたから動かした、でもいいのではないかと思ったりする。せめて選べる様にならないかと思う。子供の体力がどうのだからは必要に感じたら本人がやるのでは?人前で恥じ掻かせてるようなことの方が不利益だらけだと思いますがね。
個性は本当に様々だ。様々ゆえに魅力される。ウサイン・ボルトが基本の走り方だとは思わないしダスティン・ジョンソンの打ち方が基本が出来てるからとは言えないと思う。ボッチャの杉村選手なんて信じられないプレーをパラリンピックで数々披露してくれた。結果にこだわるくせに結果を出せる「基本」とは縁遠いプレーを認めなかったり、皆が口を揃えて美しい、かっこいい、と言いそうな「型」にハメ込み、結果が付いてこなくても「基本出来てる人が捕れなければ誰も捕れない」と歪な形で納得させる教えこそが日本の悪しき伝統である。出来たことに越したことはないが、基本にこだわる必要はないと思う。
例えば柔道などかつてのお家芸は海外勢の強さが目立つ。形はどうであれ結果に繋がる一番近い形で個性を伸ばした結果だ。柔道やってた友人が基本も出来てねぇ外人に負けやがって、と言っていたがそれは偏見だ。個性を伸ばす事に全てを注いだだけ。まるで武道の心を持ってない言い方だが、武道の心をしっかり持ち、自分たちの持ち味で戦っている選手で日本人目線からの「卑怯な戦い方」でもなければ反則でもない。そこに「基本的」目線は存在しなくていい。
兄弟でも双子でも能力は全く違う。自分の教えが正しい、と指導されてる指導者はもう一度勉強するべきだ。信じるのは己、それは分かる。ではスタートラインの違うまだまだ未熟な選手を全員スター選手に出来るか?答えは出てる。出来ない。自分が例えすごい選手を育てたとしても所詮意識高い子にたまたま当てはまっただけ。その指導者じゃなくても技術的な事は自らが進化させたと思う。それが理解出来てる指導者ならば時代の流れ、トレンドも理解しながら自分が学んだ事とまるっきり違っていたとしても違いを受け入れられるはず。指導者は形を変えて個別にサポートするのが望ましく、チーム全体でやる事はチームに任せた方がいいと思う。
ドジャースにプロ経験のないバンスコヨックがベリンジャー、ターナーらを開眼させた。個性を生かし潜在能力を引き出す指導者が本当の指導者だ。自分の教えが全てだ、と潰しの効かない指導はしない方がいいと思う。ぶっちゃけ意識が高い子は勝手に育つ。指導者に言いたいのはとにかく信頼関係を作り、顔色や表情を伺いながら悩みや想いを相手から言ってくるような関係を築いてもらいたい。そして迷いを吹っ切れる言葉の魔法を。それは親も同じ。
あなたは誰の応援団なんですか?感情的になりすぎたり、もしかしたら野球偏差値は子供たちの方が高いかもしれません。めちゃくちゃな事言えば敵だと思われてしまいますよ?
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