ずっとこのまま、

 あの日の僕は確かに、夢を見ていた。もう今となっては現実と空想の境目が牛乳を温めすぎた時に生まれる膜よりも薄く、区別をつけるのは酷く難しい。しかしあれが夢であると分かるのは、騒がしい電車に巻き込まれて死んだ友人が目の前にいるからだ。夢の中で、彼は自殺した。僕は反対側のホームで携帯を構える冷たい手と、甲高い叫び声にひっそりと紛れて、ぐしゃぐしゃになった彼を見ている。即死だったせいで彼は一瞬で生から死へと飛び込んで肉だけを残した死体になった。二度と彼に会えない悲しさが巡っていたけれど、それは死体とは結び付かずに、寂しさだけを湛えて僕は見ていた。同じ人間だなんて思えなかった。きっちり目が覚めている僕はカフカの変身を思い出す。
 「例え君が虫になっても僕は同じものとして見るよ、」眉一つ動かさず彼はいった。カフカの変身は夏休みの読書感想文に彼が選んだ本だった。まだ中学二年生だった僕は、ぼくらのサイテーの夏という題名の児童文学を読んだ気がする。もともと小説より専門書や図鑑を捲る方が性に合っていたので、内容はあんまり覚えていない。それでも僕がカフカを覚えていたのは、彼が熱心に語っていたからだ。これからもずっと僕がカフカを読むことはないのに、あらすじだけが嗜好を離れて一生付きまとう予感がする。
 今日も彼は反対側のホームで、立ちながら文庫本を読んでいた。目を凝らすと、背が伸びて高校の学生服の袖が少し短いことに気が付く。毎日のように彼は寂れた無人駅に向かって、僕は比較的大きな駅に向かって、五分違いの電車に乗っている。
 テストが近い朝、達成感を満たす為に教科書を眺めていた僕は、思い出したように顔を上げる。反対側で彼が僕を見つめていた。友人にしか分からない程度に少し笑うと、彼もまた友人にしか分からない程度に笑って本に目を落とした。
 駅の中で待ち伏せしていた僕は、改札口を通ったばかりの彼の名前を呼んだ。「藤、」椅子から半分立ち上がり、彼が近くまで来るのを待って話し掛ける。
 「嫌な夢を見たよ、君が無機物と心中する夢、」
 「会って早々、縁起でもないこといわないでくれよ、」いいながら彼は笑っていた。
 何もいわずに彼が駅を出ていく。出遅れた僕は速足で追いかけて、歩道の先を歩く彼の背に近づこうとした。「とう、もっとゆっくり、歩いてくれ、」そこでやっと違和感に気が付いた。彼は先程からずっと、僕を待つようにしてゆっくりと歩いている。なのに僕は全く追いつけないのだ。それどころか距離さえ縮まらない。
 「区別がつかないって、いったよね、なら、僕の心中が夢ではないと、どうして分かる、」 
 「それは、今ここに君が居て、」僕の声はだんだん小さくなっていき最後には消えた。
 十歩先を彼は歩いていた。決して追いつけない距離じゃない。ぞわぞわと鳥肌を立てる心臓を宥めようと歩く速度をもう少し速めた。彼が立ち止まって振り返る。
 「自信がないんだろう、どっちも夢かもしれないし、これだけが夢かもしれない、なんて君は今、考えているんだろう、」
 思わず立ち止まってしまった僕は真新しいスニーカーを見下ろした。今なら彼に追いつける。歩けない訳じゃないのに、足は微動だにせずマンホールの上にとどまっていた。
 「来ないのかい、ずっと君が追いつくのを待っているのに」
 一つの考えが頭に浮かんで僕の足から力が抜けていく。「意地悪だったね、ごめんよ、」その寂しげな声に顔を上げると彼の姿はなかった。
 改札口を通って、ホームを見渡す。彼の姿はなく、鞄だけが椅子の上に置かれていた。僕はこれが夢なのか現実なのか何も分からない。何も信用できない。しばらくして彼が姿を現し、ほっと胸をなでおろした。カフカを開きながら線路を見下ろし、彼は僕の隣で呟く。「いったろう、僕はそれでも君を君として見るって、」

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