内蔵された飢え

「君の願い、叶えてあげるよ」突然、月を背にして現れた願いに飢えた悪魔は、三日月からやってきたように見え、僕の後ろではトラックの振動が聞こえていた。それは、非日常への飛躍と日常への保身を揶揄しているようで。
「それじゃあ君の青白い、死に近い手で、僕の耳を塞いでくれよ」
「ちっぽけな願いだ。それじゃあ、駄目だ」
駄目だ、駄目だ、と否定から遠すぎる言葉を繰り返し、首を振る。表すなら、うわ言。
「けれど、僕にとっては、必要なことだ」
すらり、すらりと、三日月が光り、眩しい。なんだか、悪魔が現れてから眩しさが増したみたいだ。その眩しさは、目前で付けたヘッドライト、幽霊屋敷からの蛍光灯、まぁ、悪魔は何よりも真夜中というし、混在しない筈の二つが同時に現れているから、目が故障したのかもしれない。
「足りないんだよ、もっと、肥えてくれ」
喘ぐように足りない、と僕に願いを求めた悪魔は、ぱちりと目を開閉させた間に消えた。
不思議に思って、振り返ろうとした時に、ひんやりとした感触が耳を打ち付ける。二度と忘れない感触だろうと思う時には、嫌な音がすっかり消えて、響くのは悪魔の飢えた呼吸と願いを求める声。
「これだよ、ねぇ、僕は、これが欲しかった」
僕の声さえ反響せず、僕は声に出しているかすらわからなかった。けれども、悪魔の呼吸が一、二度深くなったので、あぁ、聞こえたんだ、とわかった。
「……僕、返さなきゃいけないな」
「耳を塞いだ程度で返されても、困るよ。赤子でも出来るんだから」
ぐっと、悪魔が飢えを凌ぐような声を出した。書物に思考を委ねるならば、この程度の事でさえも、悪魔は契約と定めて、僕の寿命や、大切なものを奪っていく事だろう。欲の対象が、きっと違うのだろうと僕は思った。
「いや、返すと決めたら、返すよ。大きな願いが欲しいんだよね」
「心の底からだよ、渇望するほどの」
無音の世界は、死に近かった。けれど、実際僕の体や頭は死を意識しているけれど死に近くはなくて、死に近いのは悪魔の手だった。
ひんやりとした手は、空気と切り離せない思考をも澄ませるし、なによりも、真夜中が僕の耳を塞いで傍に居る事が、僕を安心させる。
だから、そう、きっと今日は心地よく眠れるな。
「じゃあ僕の願い、聞いてくれる?」
「いいよ」
悪魔の飢えを孕んだ声が脳内を駆ける。
「僕の願いは、僕の願いが僕の願いじゃ無くなることだ」
不安を消し去った、安心しきった声で、僕は願いを強請る。見上げた三日月はより一層光を増していた。
悪魔はロミオとジュリエットを朗読してくれた時の庭の幽霊の声にとても良く似た声で、言い古された定型文をなぞる。
「君の願い、叶えてあげるよ」

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