小さな反抗

三女の出産予定日は四月三日だったが、その日、私の腹から出て来なかった。
どうせ遅れるなら、いっそのこと一週間後の長女の幼稚園入園式に私が出席してから、生まれたらいいのに。そんな風にも思ったが、私の淡い期待は裏切られた。
入園式の前日の夜、陣痛が始まり入院。入園式当日の未明に三女が生まれた。
午後七時、病室の扉が静かに開く音がして、私の代わりに式へ出席した夫が顔をのぞかせた。
「いやあ、大変だったわ」
入園式の後、保護者たちは入園児と別室に集められ、恒例のPTA各部への入部や役決めがあったらしい。夫の話から、幼稚園や学校には『子どもの健やかな成長を願うPTA』があり、任意といいながら子どもを持つ親は半ば強制的に組織に組み入れられ、ボランティア活動をしていることを私は初めて知った。
「俺もどうしたらいいかわからなくてぼんやりしていたら、君と知り合いのお母さんが『この人の所、今日三人目の赤ちゃんが生まれたばかりだから、役員は免除してあげてください』と声をかけてくれたんや。助かったわ」と、夫はほっとした面持ちだ。
「環境安全部の『ヒラ』だから、そんなに活動することはないらしいで」という夫の言葉に、私は胸を撫で下ろした。

四月中は近所のママ友に長女の幼稚園の送迎を頼んでいたが、いつまでも彼女の好意に甘えていられない。ゴールデンウィークが明ける頃、私は送迎を始めた。
夫が出勤し、長女を幼稚園に送り届けるまで毎朝が戦争のようだ。
幼稚園は歩いて通園する決まりがある。しかしたとえ三十分とは言え、幼い次女と新生児の三女を家に置いたまま、送迎するわけにはいかなかった。
自分の身支度もそこそこに、朝食の用意、長女の幼稚園の用意、まだ首も坐らない三女におっぱいを飲ませながら、起きてきた次女の支度をする。
最大の難関は、次女の食べるのが遅いことだ。
「もうっ、早く食べなさいよっ」「いつまでくちゃくちゃ噛み続けているの。ごっくんして、早く飲み込みなさい」「あなたのせいで、お姉ちゃんが遅れちゃうでしょっ」
私は次女に怒鳴り散らすことが多くなった。

環境安全部のヒラは仕事が少なかったが、それでも月一回の定例部会や夏前のプール掃除の手伝いなど、活動日には幼い妹たちを連れて幼稚園へ行かなければならない。
毎年春や秋に行われる『交通安全運動』も仕事の一つだ。
当番に当たった部員は、朝の通園や通学時間に合わせて横断歩道や踏切で黄色い旗を持って立ち、子どもたちの安全を確認する。九月になるとヒラ部員の私にもお役目が回ってきた。
初日の朝は生憎の雨だったが、指定された踏切に立った。
「おはよう。いってらっしゃい」
片手で傘を持ち、踏切を渡る子どもたちの前に黄色い旗を差し出して声をかける。
脇に止めてある雨避けカバーをかぶせたベビーカーの中で、三女が泣き叫んでいた。
両手が塞がっていて、私は次女と手が繋げない。
「ベビーカーを掴んで立ってなさい。そこから離れちゃだめよ」
次女が道に飛び出さないように目配りしながら「おはよう。いってらっしゃい」と、子どもたちに声をかけ続ける。
「あらま、あんた」
私の背後から、年配のしわがれた女性の声がした。
「自分の子どももおるのに、こんな所で立っているのは危ないんじゃないの」
女性は私に聞こえる声で呟きながら、踏切を渡った。
は? 私だってこんな日にこんなこと、やりたくてやってるんじゃないよ。
遠ざかる女性の背中に心の中で不満をぶつけながら、口から情けないため息が漏れた。
レインコートを着ている次女の髪の毛に雨が降りかかり、毛先から水が滴り落ちている。私のレインシューズの中も水がしみ込んでいるらしく、靴下が湿っぽく足の指先が冷たかった。
家にもどり落ち着いたところで、散らかったままの朝ごはんの片づけに取りかかる。
片づけながら、次女がいつも座っている椅子に置いてある座布団に食べこぼしの汚れがあることに気がついた。洗濯するために座布団を椅子から持ち上げると、深緑色の小さな塊がぽろりと床に落ちた。私は塊を摘まみ上げて眺めた。干からびたホウレン草の噛みカスだ。干からび具合からして一ヶ月以上は経っているようだった。
ああ、してやられた。次女は飲み込めない噛みカスを座布団の下に押し込んで、私にわからないように始末していたのだ。
私に怒鳴られても、口の中のものを飲み込めずに噛み続ける次女の顔が浮かぶ。
どうしたって飲み込めないものは、飲み込めないんだよ。
噛みカスが静かに訴えかけていた。

年が明けふたたび四月を迎えた。私は二年目も同じ環境安全部に所属した。
その年から『交通安全運動』の旗持ちは、下に子どもがいない保護者が行うことになった。
「自分の子どもの安全が確保できない人に旗持ちをさせるのは、活動の本来の主旨からもおかしいのではないか」と意見を言う保護者がいたことを、のちに人づてに聞いた。
(月刊ふみふみ Vol.22 『本音』 2020年12月初出)

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